内藤麻里子の文芸観察(53)
雫井脩介さんの『互換性の王子』(水鈴社)は、不思議な手触りの小説だ。後継者争いと商品開発が絡む企業小説なのだが、一般的に企業小説と聞いてイメージする作品とは一線を画す。恋愛小説、家族小説としても読めるウェルメイドな物語になっている。
中堅の飲料メーカー「シガビオ」の御曹司、志賀成功(しが・なりとし)は、30歳手前で事業部長を務めていた。ところがゴルフコンペで別荘に泊まり、同僚たちと酒盛りをした翌朝、何者かに地下室に閉じ込められてしまう。半年後に解放されたものの、会社には成功の辞表が届いており、事業部長には異母兄の玉手実行(たまて・さねゆき)が納まっていた。父である社長は、マスコミが間抜けな事件だと報道することを恐れて内密にすると言う。成功は営業部の平社員からの再スタートを強いられる。新規開拓の日々を送る一方で、社運を賭けた商品開発が持ち上がる。この機を逃したくない成功の巻き返しが始まった。
地道な営業の外回りや、強引に設定された売り上げ目標をどう達成するか、そして商品開発の過程などリアルでシビアな仕事の現場が活写される。成功は、持てる力はフル活用。これだけでも十分面白いのに、この作家はここで満足しない。
まず、この異母兄弟が複雑だ。シガビオを創業した父は、以前、大手乳業会社「東京ラクト」で働き、社長令嬢と結婚して一子をもうけたが、結婚生活は破綻し会社を追われたのだ。この時、元妻側に残してきたのが実行だった。実行もまた東京ラクトを追われ、シガビオに転職していた。こうした事情から今まで成功との交流はなきに等しかった。こんな二人が後継者争いを繰り広げるわけだが、さらに恋のさや当ても絡んでくる。
また社長である父が食わせ者で、後継者について具体的なことを何も言わない。それぞれの仕事ぶりも言葉少なに対応するだけ。新商品開発をめぐり東京ラクトの妨害もある中、発売まで無事たどり着けるのか、どちらが後継者になるのか、そして恋の行方はと、目が離せない展開が続く。それぞれの決着の落としどころも塩梅(あんばい)がいい。
同族間の企業小説にありがちな“暗闘”“骨肉の争い”から、暗い部分を除いたような兄弟の闘いであった。現代の若者気質を反映すると、こういう小説になるのかという気がしてくる。令和に描く企業小説と言っていいかもしれない。
プロフィル
ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。
内藤麻里子の文芸観察