内藤麻里子の文芸観察(25)

名古屋出入国在留管理局の施設で、スリランカ人の女性が亡くなったのは2021年3月のこと。ずっと体調不良を訴えていたにもかかわらず、放っておかれた末の死だった。死亡事件はほかに何件も発生しているだけでなく、長期にわたる不当な収容、難民申請の驚くほど低い認定率など入管をめぐるニュースはたびたび耳にしてきた。中島京子さんの『やさしい猫』(中央公論新社)は、そんな現状に一石を投じる長編小説だ。

小学生のマヤは、早くに父を亡くし、保育士の母・ミユキと暮らす。その母が東日本大震災のボランティアで、スリランカ人の青年・クマラと出会った。物語の前半は、ミユキとクマラが少しずつ距離を縮める様子や、「クマさん」と呼ばれるクマラがマヤとその親友をかわいがる日々が丁寧に描かれる。多少の波風はあるが、なにげない幸せな日常だ。

ところがクマラは工場を解雇され、就労ビザの期限も切れてしまう。事実婚状態にあったミユキと結婚した矢先、クマラは不法残留で東京入管に収容された。仮放免申請しても却下され、長い収容生活が続く。ついにミユキは裁判に訴えることを決断する。マヤは高校2年になっていた。

物語に織り込まれる要素は多彩だ。隣人としての外国人、日本にあふれる欧米人以外の外国人への差別感情、わずか0.3%しか認められない難民申請、収容されず仮放免となっても、さまざまに課される制限、入管職員の対応の問題、東京オリンピック・パラリンピックを前に出された通達、入管制度の未熟さ……。終幕で判明する事情によって、この物語はマヤの視点で童話でも語るように柔らかく、優しくつづられていく。先に挙げた要素を大きな声で糾弾するのではなく、自然にストーリーに絡んでくるから、すんなり胸に落ちていく。

小説はその時々の社会を映し出すのも一つの役目だ。本書は出入国在留管理について問題の所在を明らかにしている。静かな語り口に、著者の怒りがにじむ。もはや外国人と共存しなければ立ち行かない我々の生活を知りながら、対策を立てない国や差別する人々の意識に焦(じ)れるばかりだ。報道やノンフィクションとは違う、小説だからこそ伝わるものがある。物語を通して、知らなかった現状が及ぼす影響を知り、思い至らなかった他人の心を知ることができる。事実を超える真実として、問題がより強く心に刻まれるのだ。例えば、原爆のむごさを描いた井伏鱒二の『黒い雨』のように。

『やさしい猫』というタイトルの意味が判明した時、ちょっと涙がにじんだ。そんな社会の到来を心から望む。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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