あんな悲しい思いを二度と誰にもさせたくない 被爆体験証言者・吉田章枝氏

中国軍管区司令部跡

翌朝、母と二人で、妹のお骨を拾いに行きました。誰のものとも分からないお骨が、山のように積まれています。その中から、そっとお骨を拾い、母は大事に抱いて帰りました。その隣ではまた、新たに運ばれてきた遺体がどんどん焼かれていました。

翌日、夕方近くなって母と、19歳の姉を捜しに広島城へと向かいました。当時、広島城のお堀に囲まれた広い敷地には、軍隊の司令部があり、建物がたくさんありました。姉は、その中にある軍管区司令部で働いておりました。

広島城の天守閣は崩れ、跡形もありません。お堀近くには黒焦げの死体が折り重なり、お堀の水には、たくさんの人たちの遺体が浮かんでいました。燃え残った大木が、斜めになって何本か立っています。

軍隊の司令部跡に、軍人さんがただ一人腰掛けておられました。母は近づいて行き、「林涼枝の母でございます」と、あいさつしました。偶然にも、その人は姉の直属の上司、山本曹長さんという方でした。5日から大阪に出張していて、7日に急いで広島に帰り着かれたとのことでした。

母は重ねて言いました。「覚悟して来ておりますが、娘は?」と。その人は「こちらにどうぞ」と案内してくださいました。「ここが、林さんの机があった場所です。『おかあちゃん、助けて! 熱いよ!』と、叫んだそうです」と、おっしゃいました。母はその場にしゃがみ込み、焼け跡を掘りました。お骨が出てきました。真っ白に焼けて小さく小さくなっています。母は頭の骨を持って「娘です。間違いありません。この小さい歯は、涼枝の歯です」と言って、抱きしめて泣きました。そして、いつまでも、母はそのまま動きませんでした。姉は色白でふっくらとして目元が涼やかで、小さい口元にいつもほほ笑みをたたえた美しい人でした。

しばらくして、軍人さんが何か言われました。母は、いつの間にか用意して来ていた風呂敷を出して、お骨を拾い始めました。その人も一緒に手伝ってくださいました。私はなぜか涙が出ずに、立ちすくんだままで、じっとその光景を見つめていました。田舎から祖父が出てきて、姉と妹のお骨を持って帰って行きました。

その夜、私は、母の手をとって、言いました。「お母ちゃん、大丈夫よ。二人で生きていこうね。私はもう子供じゃないんだから、どんな仕事もできる。工場のお仕事でも何でもできるんだから、二人で生きようね」と、二人抱き合って泣きました。母は何も言わずに、私を強く強く抱きしめてくれました。涙がいつまでもいつまでも、とめどなく流れてきました。

次の日から母と二人で、父を捜しに出掛けました。父はあの日、いつものように8時ちょうどに、自転車に乗って家を出たようです。自転車で15分といえば、どの辺りを走っていたのだろうか。市の中心の八丁堀の辺りか、それとも爆心地近くの相生橋の上辺りだったのでしょうか。全く見当がつきません。

毎日、毎日、人の集まっている所、救護所になっている所と、父を尋ね歩きました。どこかに名前が書き出されていないだろうか。何か手掛かりになるものは残っていないだろうかと、焼け跡の道を歩いてゆきます。もう黒焦げの遺体を見ることも、川の中に浮かんで大きく膨れてしまった遺体を見ることにも、だんだん恐しさを感じなくなったような気さえしてきました。川に浮かんだ遺体は、船へ次々と引き上げられていきます。男女の区別など見分けがつきません。頭が少し焼け残っているのは、帽子をかぶっていた人でしょうか。

じりじりと真夏の太陽は照り付けてきます。あちこちに水道管が破れて水が噴き出しています。それを口に含み、タオルを水で絞って頭にかぶり、焼け跡の道を、あてどもなく歩きます。東から西へ、北から南へと、毎日、父を尋ねて歩きました。

どこからか「戦争は終わったらしい。日本は負けたんだ」という声が伝わってきました。

母は、庭に埋めておいた陶器類を掘り出して、お金に替えてきました。おばあちゃんが大事にしていた大皿も、父が好きだった土瓶蒸しのセットも、みんな消えてゆきました。

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