立正佼成会 庭野日鑛会長 10月の法話から

10月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
音読の効用
私たちは日ごろ、朝夕のご供養をしておりますけれども、読経供養も毎日毎日していると、慣れてしまって、ただしているという感じになり、お経を読んでもあまり感激しない、そういうことがありがちです。私はそういう時には、自分なりにいろいろな書物を読んだ中で、素晴らしいと思う言葉を日ごろから書いておいて、それを読むんですね。それも一人で、自分の書斎で、声を出して音読をするんです。そうすると、素晴らしいなと思いながら、また感激をして読むことができる。その感激によって、また日ごろ読経をしている時に、お経文の中に素晴らしい言葉があるのだと気づくことがあります。ですから私は、詩、俳句、また本の中のいろいろな言葉を自分なりに書き取って、それを音読、朗読してみることはとても大事ではないかと思うようになりました。
自分の信仰のお経を声を出してせっかく毎日読むわけですから、その中から素晴らしいところを自分で受け取れるような、そういう読経供養が朝夕できたらいいなと思います。それに刺激を与えるためにも、日ごろから音読、朗読をすることによって、読経供養の意義も深まっていくと私は感じています。
(10月1日)
自分が自分を救う
森政弘先生(東京工業大学=現・東京科学大学=名誉教授、工学博士)のご本(『今を生きていく力「六波羅蜜」』教育評論社刊)にこんなことが書かれています。
≪世間では葬儀の場合など、死人を仏と呼んでいるが、死んでから仏になっても仕方がない。あるいは仏とは寺院に安置してある仏像のことだ、などというレベルで仏教を見ておられる方もあるかもしれない≫
しかし、それは本当ではないのだということです。言ってみれば、仏像などは方便であって、私たち人間が仏にならなければならない。それを、死んだ人のことを仏と言ってみたり、仏像を仏と言ってみたり、それでは本当の人間は何をしているんだということになってしまう。一番大事なことは、私たちが人間でありながら人間でなくなる、凡夫(ぼんぷ)でありながら凡夫でなくなる、つまり仏になることが、私たちの精進であるということです。私たちは、いつも仏さまから救われているのではなくて、本当は、仏さまの教えをしっかりと理解して自分のものにすれば、自分が自分で救われていくわけですね。他のものから救われるのではなくて、自分が自分を救っていく、それが仏であります。
私たちはともすると、こうして大聖堂に集まって仏さまを拝んでいれば救われるのではないかと、勝手に考えてしまっておりますが、本当の信仰とはどういうものかを、日ごろからしっかりと心得ておかなければならない。これはとても大事なことであると思います。
(10月1日)
心を尽くす
私たちは仏教徒、佼成会員であります。佼成会も所依の経典は法華経ですから、仏教であります。私は法華経、仏教を理解するために、他の教えを学ぶことも大事だと考えており、儒教や道教も日ごろから多少、学んでいます。
「尽心(じんしん)」という言葉があります。レ点、返り点をつければ「心を尽くす」と読みます。心を尽くすとは、われわれの心を十分に解明する、解き明かす、明らかにすること。儒教の孟子(もうし)の言葉のようであります。
われわれの心がどういうものであるか。心というものを十分に解明すれば、物事の性質、個性、本質が分かる。それが分かったならば、「天」つまり「大自然」が分かる。そして自分の住んでいる国のことが分かり、世界が分かる。尽心にはそういう意味があるのだということです。そして、「心とは何ぞや」ということを追究していくと、それは奥深いものであって、私たちが一生かかっても分からない。人間というのはとても不思議な生き物、心を持った生き物でありますから、その心というものを一生どころか、十生あるいは百生かかってでも学んでいかなければならない。尽心というたった一つの言葉の中に、そういう深い意味合いがあるようです。私たちも仏教を通して、法華経を通して、心とは何かを学んでいるのですから、そうした他の教えも学んでみることによって、また仏教がどういうことを教えているのか、さらに興味を持てるようになるのです。
(10月1日)





