立正佼成会 庭野日鑛会長 7月の法話から
その時、この時
亡くなられた松原泰道先生(臨済宗妙心寺派龍源寺住職)の『(新版)父母恩重経を読む』(佼成出版社刊)という本がございます。そこに松原先生がいろいろと大切なことを教えてくださっております。
「父母恩重経」にいたしましても、私たちの読誦(どくじゅ)する「法華経」にいたしましても、「その時」とか「この時」という言葉をよく見受けます。例えば「爾(そ)の時に世尊、三昧(さんまい)より安詳(あんじょう)として起(た)って、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく」(妙法蓮華経方便品第二)と、そういうところです。「その時」あるいは「この時」というのは、とても大切な意味を持つのだと松原先生はおっしゃっています。「『その時』も、『この時』も、いずれも『今、ここ』に自分が出会った貴(とうと)いこの時間のこと」をいうのだそうです。私たちがお互いに素晴らしい教えに巡り合えた「その時」であると教えられています。
ですから、私たちは「法華経」を読誦する時に、遠い昔の釈尊のお説法としてではなく、「釈尊が、今・ここで私たち一人ひとりに法を説かれている」のだと受け取らせて頂くことが大切であるのです。
(7月15日)
親の恩、子の恩
松原泰道先生はご著書『(新版)父母恩重経を読む』の中で、「仏教の思想では、純粋な人間のはたらきをする心を、『仏性(仏心とも)』とか、『ほとけのいのち』と申します」と仏性について教えてくださっています。「悉有仏性(しつうぶっしょう)」――みんな、この世にあるものは全て仏性なのだという教えもございます。
松原先生は「この仏性はだれでも生まれた時から、いや生まれる前から、だれもが本来持っているのです。仏性は、だれもの心中に埋めこめられている事実です。この尊い事実が惜しいことに煩悩に覆われているために私たちは忘れている」のだと言われます。「身に埋めこめられている仏性を忘れているのが凡夫、凡夫の裏に人間の純粋性を忘れない仏性が重なって、忘れた凡夫に仏性を思い出さすのが、さとり」である、と教えてくださっております。
私たちが読経供養をするのも、忘れた仏性を思い出す縁(えにし)となってほしい、との願いからであるとのことです。仏性を思い出したら、改めて親となり子となる縁がいかに深くて貴(とうと)いかを知り、子は親の恩に、親は子の恩に合掌をせずにはいられなくなるのです。
(7月15日)