立正佼成会 庭野日鑛会長 5月の法話から

5月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

自分の仏性を拝む

江戸後期の儒学者で佐藤一斎(さとう・いっさい)という有名な方の言葉があります。

「愛敬(あいけい)の心は、天地が万物を生成化育(せいせいかいく)する心である。草木(そうもく)を生育したり、鳥や虫を飼育したりするのも、この愛敬の心を推(お)し進めることにほかならない」――現代的に表現するとこのようになります。

私たちは、人間関係だけでなく、草や木や、鳥とか虫とかについてまで粗末に取り扱わないで、愛の心を持って育てようということです。わが子を育てるように、心を広げていく大切さを教えているわけです。このように「敬」は、人間関係において大事な徳であるだけでなく、仕事の上でも、大事な心であるということです。

そして、「敬」、敬うことの一番大事なところは、自己が自己を敬する、敬うことだと説かれています。

私たちは、仏さまの教えを頂いていますから、仏さまにお参りし、仏さまを尊びます。それはお参りする私たちも、仏と同じ仏性を持っており、同じその仏性を拝んでいるということです。仏さまを拝むことは、仏性を拝むこと。仏性は自分にもあるから、自分の仏性を拝むことにつながるわけです。

ですから、己を敬することは、自分の心の中にある仏性という大切なものを拝んでいることと全く一つであるということです。そういう意味合いで、この儒教的な「敬」ということと、私たちがお互いの仏性を尊ぶことは、とても共通性があると思います。

自分自身を敬える人間になることが、本当の意味で人を敬うことにつながっていきます。自分を敬うことができない人間は、人を敬うことができないことが、ここから分かってくるわけです。

ですから、私たちが仏さまを尊い方だと拝むことは、同時に、自分の心にそうした尊い仏性があることに気づいて自分を拝むことであり、そのことに気づいていかなければならないと、私は受け取っています。

私たちは、自分たち以上の素晴らしい神仏(かみほとけ)をただ拝んでいるのではなくて、自分自身、人間の心、素晴らしい天地生生(てんちせいせい)の心、全てのものを育てていく心を拝んでいるのであり、それは全く仏も神も人間も同じだということです。そこに気づいて、日頃、精進させて頂くことが大事ではないかと受け取らせて頂いています。
(5月1日)

画・茨木 祥之

子どもとしっかりふれ合う

新潟の敬和学園という高校を立ち上げた太田俊雄という方がおられます。クリスチャンで、この学校の校長をされた人です。とても教育に熱心で、私はこの方の本を何冊も読ませて頂いています。その中のお話の一つに触れてみます。

『人格形成は、親や教師の一方的な伝達や説明でなされるものではない。いわんや、一方的な命令や禁止などでなされるものではないということを、わたしはくどいほど述べてきた。

子どもの人格は、親と子の、教師と生徒の、友だち同志の“ふれ合い”によって形成されていく。それなのに、人格形成の決定的に重要な時期である乳幼児期に、親と子はどのようなふれ合いをしているのであろうか? 人生問題で悩みはじめる第二反抗期に、親と子はどのような対話を、そしてどれほど頻繁にもっているのであろうか?

子どもが、世界中で一番尊敬する人は「もちろん、ぼくの母ですよ」と言い、「おれはおやじの方だなァ」と言うような育て方の基本には、何があったのか?

子どもが、親を「目の敵(かたき)」にし、親を「最も軽蔑しますねェ」と言い切る背後には、親と子の間にどのような“ふれ合い”があったのか。また、どのような人間関係があったのか?

子どものために泣く親が、ほとんど例外なく言うことは、「あんな子にしてしまったのは、親の責任です」という告白である。まさにその通りである。

十億の人に十億の母あれどわが母にまさる母あらめやも

と暁烏敏(あけがらす・はや)は詠(よ)んでいる。すべての母が、子どもにこのように讃(たた)えられてほしいものだ』

私たち佼成会の会員の家庭で、子どもの教育について、両親がどれほど懇談したり、相談したりしているかということです。太田俊雄先生のお話に触れる中で、佼成会の会員の子どもたちの教育を、私たちは真剣に考えていかなければならないと感じたものですから、取り上げました。

子どもたちの教育を真剣に考えて、親としての働き、親らしい働きをして頂くことがとても大切だと、私は思っております。
(5月15日)