立正佼成会 庭野日鑛会長 9月の法話から

9月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
日常生活が仏道修行
私たちは、仏さまの教えを頂いて修行しておりますけれども、教えとは「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」ということです。一切衆生とは、人間だけではなくて、天地自然、全てのものが仏性そのものだということであります。人間であるわれわれは、言葉を持ち、また心というものを持っておりますから、そうした仏性に気づく、自覚するということができ、仏教はそれが全てであるとさえ言われております。持っていないものを自覚することはできませんが、すでに持っているものを自覚するわけですから、私たちは生きているうちにその自覚を深めていく、そのことが根本的に大事であると思います。
そして、私たちは仏教を自分の日常生活に生かし、教えを実行させて頂いております。きょうの説法者のように、親がいて、子どもさんがいて、親が子どものことをいろいろ心配して、どう育てていくかと真剣に考える――それがもうすでに仏道修行であります。それはお互いの仏性を自覚しつつ、親も子も育っていくということです。親として、子どもとして、一緒に修行しているそのことがもう仏道修行であり、親が子どもを育てることも、一つの衆生救済活動です。実際の日常生活の中で、親が子どものことを心配しながら、子どもをよく育てていくという修行そのものが仏道修行である。そういうことだと私は受け取らせて頂いております。
私たちの日常生活がそのまま仏道修行になる。それが私たち在家仏教徒の修行であると、私はいつも思っており、皆さまにもそのように申し上げているわけであります。
(9月1日)
老いてなお学ぶ
今、私は数えで88歳の米寿を迎えた老人として、いかに老いるか、老人になっていくかということを考えております。老人になるということは、それだけ人生経験が長いわけですから、その間にいろいろな考え方や思想を身につけ、「学ぶ」ということに関しては、相当学んできているはずです。私などはとても十分に学んだとは言い切れませんけれども、若い人たちに比べたら、多少は多くのことを学んできております。ですから、まず、私たちは老いることを嫌ってはいけないのだということです。
お年寄り自身も、何となく、老いてしまってもう何もできないと、弱音を吐くことがあります。そうでなくて、老いれば老いるほど、若い人たちにも教えていくような気持ちで、大事なことをしっかりと常に学んで、物事をよくよく分かっていく。生きる限りは学ぶということが「老計(ろうけい)」、老人の計画の中では一番大事なことだと教えられております。
学ぶということは、考えるということであり、それだけその人の思想が深くなっていきます。だから、ただ老いる、年を取るだけではなく、考え方が深くなり、人生のいろいろなことが分かり、それを伝えていく、そうしたことがとても大事であります。私も今、そんな気持ちで、自分なりに学びつつ、皆さまにもお伝えをしていきたいと、そんな思いでいっぱいであります。
(9月1日)





