立正佼成会 庭野日鑛会長 1、2月の法話から
全てに合掌
人間であるからこそ、お日様を拝み、神仏を拝み、また人と人とがお互いにあいさつし合って、合掌することができます。そういう心を持たせて頂いたのは、全て信仰のおかげさまです。私たちは、一番大事なことを信仰によって会得し、実践させて頂いています。
大きな宇宙を考えてみても、その中のあらゆる事柄が大事なものです。神さま、仏さま、あるいは中国でいう「天」だけでなく、どのようなものも全てが尊いのですから、拝むのです。
あいさつする、合掌し合うとは、人間同士が敬い合うことです。神仏から頂いたいのちですから、みんなが神さま、仏さま、天のような心を持っています。ですから、神さま、仏さま、天を拝める人は、人を拝める人になります。人と人とが敬い、愛し合うことで調和していくわけですから、争いはなくなっていきます。
そうした心は、私たちが人間として生まれてきて、いま、信仰の道を歩み、学んで、日々実践させて頂く中で、どんどん育っていきます。毎日、読経供養をし、そのことを通して、あらゆるもののおかげさまで生かされていると、心から有り難く受け取れる人間になることができるのです。
日本では昔から、物事は「礼に始まり、礼に終わる」といわれています。
宇宙のあらゆるものが有り難く、尊いものであり、それによって私たちが生かされていることが、「礼に始まり、礼に終わる」という言葉に込められているのです。私たちは、そのことをしっかりと身につけ、また実践をしていくことが大事になります。そうした日本の伝統的な精神は、世界にも通じると認識し、実践していくことが大切です。
(2月1日)
人間として完成した境地
法句経の中に、「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し。正法(みのり)を耳にするは難く、諸仏(みほとけ)の世に出(い)づるも有難し」という一句があります。
これは、「人が生命を受けることは難しく、必ず死ぬことになっている者が、いま、たまたま生命があるのは本当に有り難いことなのだ。生命を受けたとしても、生きている間に、正法(しょうぼう)に、あるいは妙法といわれる正しい教えに接することは、とても稀(まれ)で有り難いことだ。さらに、この世に生まれてくることは難しいことだけれども、いま私たちは、こうしてこの世に生まれてきているのは有り難いことだ」という意味です。「ありがとう」という感謝の言葉は、この法句経の「有難し」「有ることが難(かた)し」から来ているといわれています。
自分のいのちは、父母のおかげさま、周囲の多くの方々のおかげさま、そして大きくは、太陽の光、水、空気、動植物を食物として摂(と)らなければなりませんから動植物のおかげさま、宇宙の一切合切のおかげさまで生かされています。細かく言えば、こうして手が動く、歩ける、食事ができる、呼吸ができる、話せる、眠れるなど、有り難いことがたくさんあります。そうした有り難いことに感謝する、「ありがとう」と言う――この感謝の源も、仏さまが伝えてくださったものです。
私たちは、うれしいとか、楽しいとか自分にとって都合の良い特別なことがあると感謝しがちです。しかし、私たちは太陽の光、水、空気、動植物など、宇宙の一切合切のおかげさまで生かされています。そうしたいのちの実相(ありのままの姿)に感謝する大切さを、釈尊は教えてくださっているのです。
ついつい私たちは、不平不満を言ってしまいますが、不平不満を言わないで、素直な心で、毎日精いっぱい生きていくことが、宇宙の万物に生かされている人間として、当然のことであると思います。それが釈尊の教えの根本です。
感謝の心を持つことは、いわば、人間の完成した境地です。一人ひとりにとっては、救われたということにもなりますし、幸福、幸せだということにもつながります。感謝ができることは、一番の生きがいであり、まさに幸福がその中に一つにまとまってあるとも言えます。感謝ができる人間になることは、人間として最高に有り難いことなのです。
(2月15日)