立正佼成会 庭野日鑛会長 2月の法話から
2月に行われた大聖堂での式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋してまとめました。(文責在編集部)
真理を拝む
宗教によっては、偶像崇拝はいけないと言うことがあります。私たちは、こうして大聖堂の仏さま、この大きな仏像を拝んでいますが、久遠のご本尊さまとして、真理・仏法を体(たい)された仏さま、その真理を拝んでいるのです。
法の身、法身(ほっしん)としての久遠本仏を拝んでいるのですから、決して偶像崇拝ではありません。仏教のお参りは、「法身の仏」、その真理を拝む――それが、私たちにとって大切なことです。
(2月1日)
「信心」の意味を受けとめて
私たちが、こうして本部参拝でご本尊さまをお参りするのは、仏像を通して、尊いみ教え、真理・仏法の前で頭を下げるということです。同時に私たち一人ひとりが、尊い真理・仏法を受け取ることができる、そういう清らかな心を具(そな)えていることにお参りをするのです。仏さまを拝むことは、自らを拝むことにもつながります。
「信仰」と言うと、(仰ぐという字が入ることで)仏さまが自分たちの前におられて、こちら側に私たちが対座する――いわば二つになってしまう感じがします。ところが、昔から日本では、「信仰」というより「信心」という言葉を使っています。
私たちは、仏さまと同じように、真理、法を理解することができる心を持っている。それはとても尊い心ですから、その心を信ずる――そういう意味で「信心」といわれたそうです。
明治以降、この「信心」が「信仰」という言葉に変わってきました。しかし、もともと人間には、仏さまと同じ心、尊い心があるのだと教えられています。ですから、「信仰」というよりは、「信心」の方が、日本では強い意味を持っていたのです。
(2月1日)