「バチカンから見た世界」(172) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

-「平和の神学」を説き続けるレオ14世(1)-
米国のカトリック司教会議が、米国とソビエト連邦(現・ロシア)間での冷戦と核戦争への恐怖が頂点に達した世界に向けて、『平和の挑戦——神の約束とわれわれの応え』と題する司牧書簡を公表し、核軍縮や軍拡の停止を訴えたのは1983年のことだった。この司牧書簡は、世界のカトリック教会のみならず、国内外の一般世論にも大きな影響を与え、89年のベルリンの壁崩壊へ向けて道を拓(ひら)くことに貢献した。
バチカンでは1978年に「赤い国(共産圏のポーランド)から来た」ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が選出され、「東西欧州は2つの肺(肺は2つで正常な働きをする)」「ウラル山脈から大西洋に跨(またが)る欧州大陸の基盤はキリスト教」といった、宗教地政学の確信を説きながら、ポーランドの自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサ委員長などと連携することによって、東西冷戦の終焉(しゅうえん)に向けて動いていた。そして、ベルリンの壁が崩壊した89年の12月1日には、ソ連最高指導者のゴルバチョフ書記長が、赤いスーツ(バチカンの儀礼では教皇謁見=えっけん=時の服装はダーク、皇貴族の夫人には白が許される)を着たライサ夫人を伴ってバチカンを訪問し、ヨハネ・パウロ2世と出会った。迫害した側、迫害された側、それぞれの背景を持つ両指導者のバチカンでの会見が、東西冷戦の事実上の終焉を告げた。
こうした現代史の流れの中で、司牧書簡は国際世論の注目を集めた。だが、現在の米国のカトリック教会には、1983年当時の覇気も威信もない。それは、国内全土のカトリック教会内で発覚し、幾つかの大司教区や教区を賠償による財政破綻の寸前にまで追い込んだ「聖職者による児童性愛問題」によって権威を失墜し、また、2期にわたるトランプ政権の台頭で、内部が分断されてしまったからだ。
そして、米国カトリック教会の状況を背景に、カトリック教会史上初の米国人教皇、レオ14世が選出された。教皇選出直後に、サンピエトロ大聖堂の中央バルコニーに立った新教皇は、広場に参集した大群衆に向かい、「あなたたちに平和がありますように」と第一声を発した。十字架上で死し、復活したキリストが、エルサレムの「最後の晩餐(ばんさん)の間」に集まり、狼狽(ろうばい)、落胆している使徒たちの前に現れた時の、彼らに対する最初の慰めの言葉だった。復活したキリストとの出会いによって、弟子たちが初めて「キリストが神であった」と確信し、聖書もキリストの復活を基点に綴(つづ)られていく。キリストの発した「平和」は、キリスト教の原点でもあるのだ。だから、社会派の教皇として知られるレオ13世の路線を継承するために、その名を法名として選んだ米国人教皇は、就任後の8カ月間、「平和」をキリストの中心的な教えとして説いてきた。「この言葉が、あなたたちの心の中に入り、あなたたちの家庭、全ての国民、世界の全地にまで届くように」と、願っている。選出当時の用心深い種々の発言に代わって、先代の教皇フランシスコの路線を明確に踏襲しながらも、独自の「平和神学」を明らかにしつつある。「平和」が「人(類)の救い」と一つになる神学だ。
今年1月19日、米国カトリック教会の3人の枢機卿が合同声明文を公表した。「ベネズエラ、ウクライナ、グリーンランドにまつわる問題に関する、軍事力の行使が基本的な問いを発し」、米国は「世界での行動(外交政策)の倫理的基盤に関して、冷戦の終焉以来の最も深刻で緊急な討議に入った」とするものだ。どちらかと言うと、トランプ政権寄りだった米国カトリック教会内において、同政権の推進する外交政策の「倫理的基盤を問う」動きが出てきたのだ。教皇の生誕地であるシカゴ大司教のブレーズ・スーピッチ枢機卿、首都ワシントン大司教に昨年、任命されたばかりのロバート・マケロイ枢機卿、そして、ニューアーク大司教のジョセフ・トビン枢機卿が、その3人だ。
この3人の枢機卿に共通点があるとすれば、3人ともに先代の教皇フランシスコによって枢機卿に登位し、現在の大司教区に任命され、同教皇のカトリック教会指導方針の信奉者であるということだ。「貧者の選択」を聖書のメッセージとして説き、2期にわたるトランプ政権と難民・移民や環境保全の問題に関し、鋭く対立した教皇フランシスコ。3人ともに、昨年のバチカンでの教皇選挙(コンクラーベ)に参加し、教皇フランシスコ路線を継承するロバート・プレヴォスト枢機卿(教皇レオ14世)の選出に向けて動いたものと推測されている。米国人枢機卿の有権者は、プレヴォスト枢機卿を含む10人だった。かつては、前ニューヨーク大司教のティモシー・ドーラン枢機卿(昨年末にレオ14世が辞表を受理)を中心として、トランプ政権支持の色彩を強めていた米国のカトリック教会で、この3人の「教皇フランシスコ派」の枢機卿が、史上初の米国人ローマ教皇の教えに沿い、「米国を偉大とするために、神によって(狙撃事件から)命を救われた」と信じるトランプ大統領の外交政策に対し「疑問を呈した」のだ。彼らが、1983年に「世界平和」へ向けての権威ある指針を国際世論に突きつけた、あの米国のカトリック教会の面影を取り戻せるかどうか――。
スーピッチ枢機卿とマケロイ枢機卿は昨年、広島と長崎への原爆投下から80年の機会に訪日し、関連行事に参加した。スーピッチ枢機卿は、合同声明文を公表するにあたり、「レオ教皇が、私たちに対して明確なる指針を与えており、私たちは、彼の教えをわれわれの国家と、その指導者の行いに対して適応していかなければならない」と前置きしながら、「数百万人の人々を、恒常的に存在の淵に陥れる罠に追いやるような決断を下す」政策を見守ってはいられない、と糾弾している。米国内での福祉、医療援助や国際援助の節減、大量移民の送還など、トランプ大統領の政策を非難しているのだ。同枢機卿の指摘する「教皇の明確なる指針」とは、レオ14世が1月9日、バチカン外交団との年頭あいさつの中で述べた、世界状況の分析と国際政策に関するビジョンのことだ。マケロイ枢機卿は、「カトリック教会の社会理念は、国家の利益が偏狭に解釈され、諸国間の連帯や人間の尊厳性といった倫理的義務を排除する時、世界に耐えがたい苦を与え、各々(おのおの)の国家が享受でき、神の意思でもある、正義に適(かな)った平和に対する災害的な攻撃になると教えている」と強調した。
トビン枢機卿は、バチカンで開催され、世界から170人の枢機卿たちが参加した「特別枢機卿会議」(1月7、8日)での体験を振り返りながら、「レオ14世と世界から参集した兄弟なる枢機卿たちが、教皇の説く諸国間における正義に適い、平和的な関係を追求するビジョンを重要視していくことを教えてくれた」と述べている。「そうしなければ、増強されてくる脅威と軍事紛争が、国際関係を崩壊させ、世界を無量の苦へと突き落とす」からだ。





