食から見た現代(20) 人と人とのつながり 文・石井光太(作家)

在日外国人支援団体「カラカサン」(写真提供/同団体)
神奈川県川崎市を走る南武線の鹿島田駅から徒歩5分ほどの住宅街に、カトリック鹿島田教会は建っている。
この日の午後、教会の入り口にはビニール袋に入った食料が20個ほど並べられていた。中には、魚の缶詰、野菜、カロリーメイト、ヨーグルト、スナック菓子、サラダ油などが入れられている。
午後3時を過ぎると、外国人女性が一人またひとりと自転車や車でやってくる。大半が40代~50代のフィリピン人女性だ。教会からフィリピン人シスターが出てきて、彼女たちに用意していた袋を渡す。
袋を受け取った女性たちは、食料だけでなく、母語で会話をすることを楽しみにして来ているようだ。なかなか帰ろうとはせずに、その場でシスターと笑い話に花を咲かせる者もいれば、1時間も2時間も真剣に話し込む者もいる。
ここで行われていたのは、在日外国人支援団体「カラカサン」が月に2回行っている食料支援活動だった。カラカサンでは、2005年からセカンドハーベスト・ジャパンと協力し、生活困窮している在日外国人に食料を配布している。近隣に住んでいる人たちは直接取りに来るが、県外に住んでいる人には宅配便で送る。
同団体の西本マルドニア氏(69歳)は言う。
「日本に暮らしている外国人女性は生活に困っている人がたくさんいます。そういう人から連絡を受けて、支援が必要だと判断すれば、国籍に関係なく食料を渡しています。ただ、ここに来る人たちは、心にも問題を抱えていることが多い。だから、食べ物をあげるだけでなく、母国の言葉で話をして、ストレスを発散してもらったり、悩みを聞いて解決に導いたりするようにしているんです。シスターの中にはスペイン語を話せる人もいるので、南米の人もやってきます」
川崎市は、昔から外国人が多く暮らしていることで知られてきた。その中でも特に困難を抱えている人々の支援を行っているのがカラカサンなのである。
川崎の地にカラカサンが誕生したのは、2002年のことだった。きっかけは前述のマルドニア氏がDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けて家から逃げだしたことだった。
マルドニア氏がフィリピンの東ネグロス州から日本に渡ってきたのは1982年のことだ。船舶関連の仕事をしていた父親からたびたび日本の素晴らしさを聞いていたことから憧れを抱き、26歳の時に未婚で産んだ娘を実家に預け、単身で出稼ぎに来たのである。日本では1980年代~1990年代にかけてフィリピン人出稼ぎ労働者の数が急増したが、その最初の時代である。
沖縄を皮切りに、マルドニア氏はプロダクションや店の意向で主に関西の店でエンターテイナーとして働いた。初めての結婚相手である日本人男性と知り合ったのも、大阪の店で働いていた時のことだ。だが、結婚からほどなくして、日本人の夫はマルドニア氏に暴力を振るうようになった。
出稼ぎに来ていたフィリピン人女性が、結婚後にDVを受けやすいのは、本連載で外国人を主に受け入れている母子生活支援施設「FAHこすもす」で見た通りだ。暴力は日に日に激しくなっていったが、警察に相談しても「母国に帰りなさい」と相手にしてもらえず、支援団体の存在も知らなかった。そこで彼女は夜逃げするようにして大阪の家を離れ、知人のつてを頼って川崎へ逃げたのである。
川崎に落ち着いたマルドニア氏は、離婚して日本での生活を再スタートさせた。やがて仕事で知り合った日本人男性と2度目の結婚をする。すると運の悪いことに、またもやその夫が彼女に手を上げるようになる。しかも、暴力は自分だけでなく、フィリピンの実家から連れてきた娘にまで及んだ。
大阪の時と違ったのは、彼女の周りに、身近に相談に乗ってくれる人がいたことだ。昔から川崎は外国人が多く暮らす町として知られており、当時も大勢のフィリピン人が住んでいた。そのため、川崎市内のカトリック教会には、クリスチャンであるフィリピン人のコミュニティーができており、細々とだが支援活動も行われていた。マルドニア氏はその一つであるカトリック鹿島田教会に駆け込んで支援者とつながり、数年かけて家庭の問題を解決したのである。
その後、マルドニア氏は教会に恩返しをするため、自身もボランティアとして働くことになった。その中で、マルドニア氏の経験を活かすため、教会から独立して支援団体を作る話が持ち上がり、設立したのがカラカサン(タガログ語で「力」の意味)だったのである。

食料を受け取る外国人女性(写真提供/カラカサン)
現在、カラカサンでは、DVの相談や食料支援に加え、在留資格や子育ての支援など幅広く手掛けている。マルドニア氏は話す。
「日本に住んでいるフィリピンの人は、私も含めて高齢化が進んでいます。そのため、昔のような日本人の夫からのDV被害者が少しずつ減ってきました。それに合わせてカラカサンでもDV相談だけでなく、いろんな相談に乗れるようにシステムを変えていったのです」
カラカサンが設立された頃、日本に暮らすフィリピン人女性の大半は20代~30代だった。彼女たちが日本語も不自由な中で日本人男性と結婚し、直面していたのがDVの問題だったのである。
しかしそれから10年もすると、彼女たちの悩みは子どものことへと移る。親子で母語が異なるのでコミュニケーションがうまくいかない、子どもが学校等で差別を受ける、親子でも文化のすれ違いが起こる、子どもが人間関係や勉強で悩んで不登校になる……。夫婦間の確執から、親子間の確執へと変わっていったのだ。
さらにそこから10年が経つと、今度は子どもが就職できずにニートになるとか、義理の両親の介護に追われるといった問題が起こるようになった。夫の退職や死別に伴って生活困窮に苦しむ人も増えた。そして現在、彼女たちが直面しているのが自身の高齢化問題なのである。
マルドニア氏は言う。
「日本では私も含めて高齢のフィリピン人が増えています。カラカサンに来る女性も若い人はほとんどいない。50代、60代が多く、40代だと若いくらい。若いフィリピン人もいますが、昔みたいな仕事はあまりしていません」