南半球から来た教皇が逝去(海外通信・バチカン支局)

2015年10月28日、「ノストラ・エターテ」(我らの時代)50周年記念国際集会で各国から宗教指導者が集まる中、バチカン広場で行われたミサに臨む教皇フランシスコ

ローマ教皇庁「信徒・家庭・生命省」のケヴィン・ジョセフ・ファレル枢機卿(カメルレンゴ/教皇空位期間管理者)は4月21日、「親愛なる兄弟の皆さま、深い悲しみをもって、教皇フランシスコの逝去を告げなければなりません」と公表した。死因は、脳卒中と心不全と伝えられている。

ファレル枢機卿は、「今朝の7時35分に、ローマの司教であるフランシスコは、父なる神の家に帰りました。主なる神と、彼の教会のために全生涯を捧げました」と教皇フランシスコの業績を讃(たた)え、「忠誠心、勇気、普遍的な愛をもって、福音の価値観を生きるように教えた」と追憶した。

教皇ベネディクト十六世による生前退位という、カトリック教会にとっては劇的な状況の中で開催されたコンクラーベ(教皇選挙)によって選出された教皇フランシスコは、カトリック教会にとって初めての南半球出身の指導者だった。教皇に選出された直後、バチカンの聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに立ち、バチカン広場に参集した信徒たちに向かい「地の果てから来ました」と挨拶した。カトリック教会史上初の南半球出身の教皇だっただけに、欧米を中心とする北半球のメンタリティーを中心に動くカトリック教会を批判し、南の低開発国や開発途上国で貧困や抑圧に苦しむ民の声を代弁した。

教皇フランシスコの就任式(2013年3月19日)

イデオロギー化(共産化)されていない「貧者の選択」が「福音のメッセ-ジ」であると説き、南米大陸で1960年から70年にかけて発展してきた「解放の神学」を、カトリック教会の刷新運動の根底に置いた。南で抑圧されている民を擁護するために、難民の受け入れを主張し、世界の経済機構を「正義」という視点から非難しながら、難民を生む同じ経済機構が、環境破壊をも進展させていくとする「包括的な環境論」を教示。カトリック教会内部の改革に関しても、貧しい人々や社会で疎外されている人々を癒やす「野営病院」と教会を位置付け、彼らと出会うために積極的に「外に出てゆく教会」を示した。

カトリック教会を12年間にわたって指導してきた教皇フランシスコは、その後半部分で、「人類友愛」を基盤とする諸宗教対話と世界平和を希求した。教皇フランシスコと、イスラーム・スンニ派最高権威機関「アズハル」(エジプト・カイロ)のタイエブ総長が2019年、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビで共に署名した、「人類友愛文書」が、教皇のカトリック教会指導方針に大きな影響を与えたのだった。

世界の主要都市ではなく、「僻地(へきち)」を訪問することを好んだアルゼンチン出身の教皇は、最初の訪問地として大量難民の漂着するイタリア南部のランペドゥーザ島を選び、イラク、ミャンマー、バングラデシュ、モンゴルなど27回の国際旅行(友愛の旅)を実行した。枢機卿の任命も、欧米主要都市からの任命が少なくなり、「僻地の教区」から任命される数が多くなった。1500人の信徒しかいないモンゴル・ウランバートルの大司教が枢機卿に任命されたのは、その典型的な例であった。

2019年には訪日し、広島と長崎から「核兵器は非倫理です」とアピールした。青年時代には、日本での布教を夢見ていたイエズス会出身の教皇が、88歳で父なる神の家に帰天した。

葬儀は、4月25日から27日の間を予定している。コンクラーベは5月上旬になる予想だ。
(宮平宏・バチカン支局長)