立正佼成会 庭野日鑛会長 2月の法話から
2月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
執着を取り去って
人間は心があるがゆえに、いろいろなことに執着して、自らを不幸にしているケースが多いようです。私たちは、そうした執着から離れて、いつも感謝の心でいられる、そういう仏さまの教えを頂いている者同士です。改めて、そうしたことをしっかりと学び直し、執着から離れて、本当に幸せな、感謝に満ちた生活をさせて頂きたいと思います。
私たちが何に感謝するのかということですが、親から生んで頂いたこと、そして人間として生まれたこと、そのことが本来は幸せであるわけです。それを知らずに、あれが欲しい、これが欲しい、それがなければ幸せになれないと思い込んでしまっている場合が多いといえます。皆さんと共にそうした執着を取り去って、人間として、今、生きている、生かされていることがいかに幸せであるかを味わっていきたいと思います。
(2月1日)
「道場観」の意味を知る
私たちは毎日、読経供養の最初に「道場観」を唱えます。「道場観」は、簡単に言えば、「この場所は、仏さまたちが悟りを開いた所であり、仏さまたちが妙法を説かれた所であり、仏さまたちが入滅された場所である」ということです。
今、私たちがいる所で、諸仏が悟りを開かれて、妙法を説かれて、そして入滅された。私たちも同じようにそういう世界に住んでおりますから、今、こうしていのちを頂いていますけれども、やがてはお互いさまに入滅していくわけであります。
法華経には、人間の現実世界は、本仏が常に説法をしている尊い世界であると説かれています。そうした中で、私たちは今、修行させて頂いているのです。
(2月15日)
今を大事に生きることで
私は今年、85歳を迎えます。最近、先輩の方々がどんどん亡くなっていかれます。後輩の人たちも亡くなっていくことがあります。本当にかわいそうだなと、そんな気持ちも起こりますが、よく考えてみますと、お釈迦さまも亡くなられ、開祖さまも亡くなられました。私たちも当然、亡くなっていくわけであります。
もちろん、人が亡くなって悲しくないなんて人はいないわけですが、不幸ではないと、そんなふうに思います。
これは、ある方の見方です。こういうことをおっしゃっています。
「よく、死ぬことを『不幸にあう』という人がいます。
宝くじに当たる人がいて、当たらない人がいる。ふぐに当たる人がいて、当たらない人もいる。車に当たる人がいて、当たらない人がいる。当たる人、当たらない人を、『ついてる人』『ついてない人』、『幸運な人』『不運な人』と一般的に分けることができます。
では、死なない人はいるでしょうか。この世に生まれたからには、必ず死ぬようになっているので、『死ぬ人』『死なない人』には、分かれません。
ですから、死ぬのが不幸で、死なない人が幸運という分け方はできません。このことから、死は幸、不幸という対象にはならないということが解(わか)ります。
死ぬこと自体は、すべての人に訪れるので、選びようがありません。すべての人に公平平等に起こることなので、不幸なことでもないし、いけないこと、悲しいこと、嫌なことでもありません」
また、こういうことを言っておられます。
「すべての人が呼吸をしていること、食べることに対し、良い悪いは言わないはず。死ぬことにだけ、良い悪いと言っているのはおかしいのではないでしょうか」
確かに、言われればそうかなとも思いますが、いずれにしても人が亡くなったら、やっぱり悲しい。特に、幼い子供さんが亡くなられるのは、本当に悲しいことです。そうした悲しみを通して、私たちは仏さまの教えをさらに深く受け取ることができるように成長させて頂くことが大切であろうと思います。
私たちは日頃、「念を入れて生きる」ことが大切だと教えて頂いています。「念」という字は、「今」の「心」と書いてあります。今、目の前の人を大事にする、今、目の前のことを大事にして生きていく。「念を入れて生きる」という本当の意味はそういうことです。
念ずればどうにかなる、というよりは、字そのものが「今」の「心」ですから、今、目の前の物事を大事にしていく、それが私たちの一番大事な現実の問題であるわけです。悲しみにふけるだけでなく、そのように前向きになることで、亡くなった人が浮かばれるのだと思います。
(2月15日)