あんな悲しい思いを二度と誰にもさせたくない 被爆体験証言者・吉田章枝氏
私は、女学校4年生、16才でした。3年の2学期から、中国電力大洲工場に動員されていました。戦争の長期化で、大人の男性は兵士となって戦争に行き、人手が足りないため、終戦の1年前、昭和19年8月、国による学徒勤労令が出され、中学生以上の生徒はみんな、強制的に、軍需工場や建物疎開などの勤労奉仕に行っておりました。それを学徒動員といいます。
8月6日の朝、私は、いつものように7時前に家を出ました。いつもはまだ寝ている父が起き出して、「今日は、警報が出ているから気をつけて行きなさい」と玄関まで送ってくれました。私は「ハイ、行ってきます」と、父の顔を見ながら言いました。
父は8時ごろ家を出たそうです。19歳の姉は、広島城の中にあった中国軍管区司令部へ勤めに出掛けました。母と7歳の妹は自宅におりました。
その日は、ぎらぎらと夏の日がとてもまぶしく照り付けていました。広島駅を通り過ぎて、やがていつもの集合場所に着き、みんなと朝のあいさつをして、先生の引率で二列に整列し、大きな声で軍歌を歌いながら、5分ほど歩いて工場に着きました。工場は爆心地から4キロ離れた所にありました。
私たちの仕事は、潜水艦に積み込む配電盤の部品を作る作業です。私は旋盤の前に立ち、やすりを使い始めていました。
突然、ピカッと、ものすごく強い光が目にとび込みました。反射的に机の下に身を伏せると同時に、ドンと大きな音がして、建物の土壁やガラスの破片が降りかかり、周囲は砂ぼこりが立ち込めました。
やっと収まった頃、机の下からそっとはい出してみました。何が起きたのか、お友達はどこへ行ったか見当たりません。そばに出てこられた班長さんが、私の手を引っ張って走り出され、そのまま防空壕(ごう)にとび込みました。げた履きの音がカタカタと鳴ったのを覚えています。