WCRP/RfP「第3回東京平和円卓会議」 戦争を超え 赦しと和解を目指す(動画あり)

光祥次代会長に聞く

祈る気持ちで対話重ね 「平和に生きる」を実践

――会議を振り返って、感じられたことをお教えください

会議の冒頭、ウクライナの参加者の一人が、「(空爆を受けた)子どもががれきの下で最期の祈りを口にする姿を見守ることしかできない」と切実に語られました。ロシアでもミャンマーでも同様に、多くの人が命を奪われ、傷ついています。この厳しい状況を前にした時、紛争当事国の宗教者が出会う対話の場を作れた意味の大きさを感じる一方で、現実を変えるような価値のあるものを生み出せているだろうか、と自問しています。

ある参加者からは、「(会議は)トークであってアクションではない」という発言がありました。声明文を出しても、戦争を止めることはできない私たちが集まることの価値は何かと考える時もあります。しかし、私たちは諸宗教対話の場を作り続けることしかできません。その対話の場に、紛争当事国の皆さんが、国外に出るだけでも危険を伴う中で参加してくださることが支えであり、希望に感じます。「宗教というのは、すぐに成果のでないことでもやっていくのが大切なんだ」という開祖さまの言葉を支えに、参加した方々同士のつながりが意義あるものであってほしいと祈る気持ちで、今後も対話を続けていこうと思います。

――開会式の挨拶では、「一瞬一瞬を平和に生きること」の大切さを伝えておられました

「平和に生きる」を実践するには、日頃から怒りを手放し、許すことができる自分を作り上げていくしかありません。そのためには、法句経(ほっくぎょう)に説かれる「怨(うら)みを捨てる」ことが重要だと考えます。でも、この教えを真に理解し、実践するのは非常に困難です。手が届くかも分からないかなたにある到達点のようにさえ感じます。

しかし、会議の中である方が、「怨みを捨てるのは相手のためじゃなく、怨んでいる自分のためだ」と発言されました。相手を許すことで、怨みを持って生きることの苦しさが手放されていくのだと思います。

一方で、大切なものを奪われるなどした時に怒りが湧くのは当然です。そうした感情がなければ、身を守る術(すべ)もありません。「怒らない」ではなく、「怒りを持ち続けない」ことを説くのが、仏教や他宗教の智慧(ちえ)ではないでしょうか。そのために何をできるかが、大きな人生の宿題だと受けとめています。

また分科会では、ミャンマーで行われている、兵士となった若者へのトラウマヒーリング(心的外傷の癒やし)のニーズが高いと聞きました。私が関わらせて頂いているWCRP/RfP日本委員会による「平和と和解のためのファシリテーター養成セミナー」などを通して、癒やしや和解につながる取り組みを進められる人を育成することで、何らかの支援をできないかと考えています。

「みんなに思われている」実感が大きな支えに

――東京平和円卓会議の開催には、会員の皆さんから寄せられた「ウクライナ緊急募金」の浄財が役立てられています

本当にありがとうございます。祈りを捧げる、募金をするという行動は微力に感じるかもしれませんが、紛争地で生きる方が「みんなに思われている自分」を実感することは、大きな支えであり希望だと思います。これは私たちも同じで、日常の中で誰かに思われていると感じることで、「自己肯定の基盤」になります。

特に、会員の皆さんは、「一食(いちじき)を捧げる運動」を通して佼成会やWCRP/RfPの支援活動を支えてくださっています。私が取り組みに参加させて頂くと、いろいろな方から「佼成会からの支援」に対する御礼を言われます。そうした時には、「佼成会のお金(予算)ではありません。生活が苦しい状況にある方もいる中で、会員一人ひとりが一食を抜いて(苦しむ人々に)寄せた思いが集まったものです。本当に大切にして頂きたいですし、役立てて頂けることに感謝しています」と、皆さんの思いを代表して伝えさせて頂きます。皆さんがいてくださる現実が、私の言葉を意味あるものにしてくださるのです。「そこまで人を思ってくれる」という一人ひとりの大きな力が多くの人に伝わるよう、皆さんの思いやりと行動に心から感謝し、共に歩んでいきたいと願っています。