内藤麻里子の文芸観察(37)

小川哲さんの『地図と拳』(集英社)は、旧満州(現在の中国東北部)を舞台に、日本が第二次世界大戦に突き進む中で生きる人々の姿を描いた新機軸の歴史小説だ。実在の人物はほぼ登場せず、仙桃城(シェンタオチョン)という架空の都市で物語は展開し、SFめいた知的な異空間を現出する。けれど、日中戦争を世界史の中で捉える大きな視点と、そこで生きる人々の個人史がかみ合って時代状況や時代性が見事に浮かび上がってくる。

全19章に及ぶ大作の中で、メインストーリーとなるのは須野明男(あけお)が登場する「第六章 一九二三年、秋」からだろう。それまでは、明男登場に至る前史と言っていい。

物語の幕は1899(明治32)年に開く。帝政ロシアを警戒してハルビンから奉天以南まで調査する密命を帯びた高木と、通訳の細川。李家鎮(リージャジェン=「鎮」は村のような行政区)の権力者である李大綱(リーダーガン)と、ロシア人宣教師のクラスニコフ、さらにクラスニコフ神父に命を救われた楊日綱(ヤンリーガン)ら「第六章」以降に大きく絡んでくる面々が、義和団の乱や日露戦争を経た1909年までに歩んだ道のりが展開する。この前史は少し不思議な要素を含み、さながら『地図と拳』という世界の創世記のように思えてくる。なにせ本筋が始まる直前の「第五章」で描かれるのは、明男の父となる須野だ。須野は気象学者でありながら地図の研究に没頭している。実在しない島がロシアの作った地図に載っているのだが、なぜその島が地図に描かれたのか調べる仕事を請け負っていたりする。

こんな前史を下敷きに、いよいよ明男が登場する。東京帝国大学で建築を学んだ明男は、満州鉄道で力をつけた細川が主導するかつての李家鎮、いまや仙桃城となった都市の建設に携わることになる。帝政から共産主義に変わったソ連は相変わらず日本の背後に影を落とし、満州国が建国される中、抗日運動も盛んになる。細川は日本の10年後を予測する「戦争構造学研究所」を設立し、果たして事態は予測通りに動き、変えようもない。次々と事件が起こり、人々は錯綜(さくそう)していく。激動の満州で、明男の建築への理想はどうなるのか――。

領土を端的に示す地図は戦争の端緒にもなるし、戦略、戦術に不可欠だ。一方で都市計画や建築の礎にもなる。そして、明男の父が取り組んだ実在しない島を載せた地図は希望にもなり得る。そのことが判明する終幕は、戦争の汚濁を経てなお人間が刻んできた足跡に光を与える。歴史認識と、知的な興味と、生きることの哀しみと希望が詰まった長編であった。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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