立正佼成会 庭野日鑛会長 5月の法話から

5月に行われた大聖堂での式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋してまとめました。(文責在編集部)

好き夢

法華経(安楽行品)の中に「好夢(こうむ)」という言葉が出てきます。訓読では、「常に是(こ)の好(よ)き夢あらん」という一節です。

私たちは、人生の中でいろいろな経験をします。好きなこと、嫌いなことなど、いろいろな体験をします。しかし、法華経の中にある「好夢」「好き夢」とは、どんなことも、どんな体験も、どんな経験も、人間にとって、実はとても「良い夢」、全てが「好夢」なのだ、ということです。私たちは、そのことからいろいろと気づかせて頂くことができます。

嫌いな人、好きな人など、人間関係をはじめとする一切のことを、私たちは自分で判断してしまいます。しかし、そうではなく、人間は、好き嫌いを超えた世界にも行くことができるということです。法華経に説かれている「好夢」という言葉には、好きだ、嫌いだということを超え、全てのことは、とても大事な経験なのだという意味が込められていると、私は学んでまいりました。

人生には、本当にいろいろなことがございますから、私たちの人情、人間の単なる心情で判断すると、好きだ、嫌いだということになってしまいます。しかし、そうではない。それを超えていく世界を、皆が目指していきなさい、そういう仏さまの心を目指して、向上していきなさい――という願いが込められているのです。

人生に無駄なことはない

こういう言葉があります。

今の一当(いっとう)は古(いにしえ)の百不当(ひゃくふとう)の力なり

今、射(い)た矢が、的(まと)に当たるようになるまでには、その前に何百回か稽古し、当たらなかったこともたくさんあった。今、目の前の一当の矢が的を射たということは、「百不当」とあるように、何百回も稽古して、当たらなかった、そういう過去の経験、体験が力になっている――という意味合いの言葉です。

私たちは、若い頃を過ぎ、だんだん年配になり、その中でいろいろな経験、稽古をします。そして、「あの時は、こんなふうに思っていたけれども、こういうことだったのか」と気がつきます。新たに気づかせて頂ける力が、皆にあるということです。ですから、人生の中には、余計なこと、無駄なことはなく、無駄と思っていたことも、そうではなかったことが、だんだんと分かってきます。そのような意味が、この「今の一当は古の百不当の力なり」という言葉の中に込められているのです。

私たちは、若い頃から、いろいろなことを疑問に思ったり、「こんな無駄なこと」「こんな余計なこと」と思ったりするようなことがたくさんあります。しかし、そうしたこと、その体験が、今、自分の力になっている、人生の中で立派に役立っているのです。

画・茨木 祥之

自らのいのちを見つめて

今年は、「有り難い」ということを、みんなで味わっていこうと申し上げてまいりました。私たちが、この世に人間として生まれてくるということは、言葉で言い表せないほど稀(まれ)であり、存在することそのものがとても難しいということが、「有り難し」という言葉の一番の意味であります。

いのちを頂いた、それも人間のいのちを頂いたことを、日ごろ私たちは、忙しさの中で、ほとんど忘れてしまっています。

仏教では、私たちのいのちについて、生老病死の「生」と「死」を一つにして「生死(しょうじ)」と表します。そして、「生死」を明らかに知ることが、仏教徒として最も大事なことであると教えています。私たちは、悟りを頂くため、仏さまの真実の教えを本当に分からせて頂くための因縁として、いのちを頂いたのだから、自分のいのち、「生死」というものを深く探求しなさい、ということです。

「生死」という言葉が表すように、人間だけでなく、動物も植物も、この世に存在するあらゆるものには、やがて死がやってきます。ですから、生と死は切り離せない、「生死」と二つくっつけて、いわゆるいのちを表しているわけです。

人間として生まれることは、容易(たやす)いことではなく、仏教に出遇(であ)うことも稀(まれ)なことであると教えられています。このように人間の体、いのちを頂いたことは、本当に素晴らしいことであり、仏さまの教えに巡り遇えたことも、とても有り難いことだというのが、「有り難し」の一番大切な意味合いなのです。

在家仏教の一番大事なこと

一般世間では、人が亡くなると合掌をいたします。しかし、私たちが生きている間に仏になるのが、仏教の本当の意味合いだとされています。

私たちは、生きている者同士であっても、お互いを仏として合掌することが、なかなかできません。私たちには、反省することがいっぱいありますから、簡単に仏であるとは言えないわけですが、とにかく「仏さまから頂いたいのちなのだ」と、自らのいのちに合掌できる人間になることが、信仰のスタートになります。

そして、自らのいのちに合掌・礼拝(らいはい)できるようになって初めて、今度は、人さまのいのちに合掌・礼拝できる人間になれるのです。自らを合掌・礼拝できない間は、なかなか人さまを合掌・礼拝できません。世の中は、人と人との関係で成り立っていますから、自らのいのちの大切さ、有り難さを自覚しない限り、人と人との間の平和、本当の幸せは築けないのです。

私たちは、今日こうして大聖堂に参集し、ご本尊さまをお参りしています。こうした立派なご本尊さまを前にしますと、自(おの)ずと頭(こうべ)を垂れたくなります。しかし、日ごろの生活の中で、お互い、心から合掌し合える人間になることが、在家仏教では一番大事です。大聖堂あるいは各教会で、仏さまをお参りするのは、信仰者として敬虔(けいけん)な姿ではありますが、在家仏教として一番大事なところは、私たちがいる所、日常生活をする所で、お互いに合掌・礼拝できる人間になることです。

心法――心を働かせる

人間関係の中で一番難しいのが、夫婦であるといわれています。そして、その中で一番肝心なことは、辛抱だといわれています。この辛抱という字は、普通、辛(つら)いことを堪(こら)えしのぶ、忍耐するという意味合いの字が当てられます。しかし、この言葉は、「心法(しんぼう)」からきているという説もあります。「心法」とは、心を働かせるということです。夫婦の間で、いかに心を働かせて、円満にしていくかが一番大事であり、「心法」が夫婦関係の要であると教えられています。

その意味で私は、「三つの実践」ということで、家庭での夫婦関係においても、「おはよう」とあいさつすることが、とても大事なことであると思いますし、呼ばれたら返事をすることも大事ではないかと思います。またこれは、幼い頃からの習慣にならなければならないことですが、席を立ったら必ず椅子を入れ、履物を脱いだらそろえるということなどを提案しています。

お互いに「心法」ができませんと、往々にしてあいさつも、返事もできなくなります。一番難しい関係の中でこそ、朝のあいさつとか、呼ばれたら返事をするとか、あるいは何かしてもらったら感謝し、「ありがとう」と言うというようなことが「心法」であり、心を働かせる一番大事なところは、そこにあります。

私たちにとっては、自分の生活する場所でのあらゆることが修行――つまり生きることが修行ということですから、あらゆることに心を込めて、心を働かせていかなければならないと思います。