立正佼成会 庭野日鑛会長 2月の法話から

2月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

種があるから芽が出る

私たちは、ご法を習学する、学ぶことによって、仏さまのような心を頂けると思いがちですが、実はすでに持っているものが、教えられることを契機として、自分の心の中に芽生えていくのだと思います。

持っていないものが、芽生えることはありません。植物の種などは、生きていますから、大地にまけば芽が出てきます。私たちの仏性――そういう心の働きも、もともとお互いに持ち合わせているものが、学ぶ、習学することを一つの契機として芽生えるのです。

二宮尊徳翁の次のような歌があります。

「己(おの)が子を 恵む心を 法(のり)とせば 学ばずとても 道(みち)に至らん」

母親あるいは父親がわが子を恵む、哀れむ、情けをかける、そういう心を「法」とすれば、それはもう、自分が持っているものですから、「学ばずとても道に至らん」――つまり仏道を歩むことになっているのだという意味合いだと思います。

私たちは、学ぶことを契機として心が豊かに育っていきますから、もちろん学ぶことはとても大事です。しかし、それはすでに持っているものから芽が出てくるのです。親が子を恵む、哀れむ、情けをかける、かわいがるという心を持っている以上は、それはもう学ばなくても道に至るのだということです。
(2月1日)

幸せをつかむために

自分の力で生きている人は誰もいません。例えば、太陽がなければ生きていけません。水や空気がなければ、すぐに命は危険にさらされてしまいます。そういう大切なものをほとんど、ただ同然で使っています。それに対する感謝の念をついつい忘れがちです。

そういう意味で、昔の人は、「お天道さまのおかげで生きている」ということで、日の出を拝みました。うちの母などはいつも柏手(かしわで)を打って、拝んでいました。物心がついてくると、親のそうした行為を、「何であんなことをしているのだろう」というような目で見ていましたが、いろいろと人生を歩んでまいりますと、そうした昔の方々や親の姿勢が、大自然に対する感謝、また、いのちを頂いていることへの感謝の表れだと分かります。現代人がそういう心を取り戻すことが、真(まこと)の幸せをつかむために大事なことだと思います。
(2月1日)

全ては自分、と受け取る

仏教では、「自分」と「他の人」の見つめ方がとても深く教えられています。その一つに、曹洞宗の山田霊林(れいりん)師(永平寺七十五世貫首)の道元禅師についてのお言葉があります。

「道元禅師は何を見ても何を聞いても、それが、『自分自身』であることを感じられました。『己(おの)れ自ら』であることを感じられました。わたしたちは、『自己』と『他人』とを、はっきり区切って感じますが、禅師には『他人』という言葉がありません。わたしたちが『他人』と呼ぶところを、禅師は『他己(たこ)』と申されます。他は他であるが、それがそのまま『己れ』として感ぜられ、その喜びも悲しみも『己れ』の喜び『己れ』の悲しみなのであります」

山田師のお言葉にあるような心、精神は当然、仏教の開祖であるお釈迦さまの精神と一つであると言えます。私たちも、いつも「自己」「他己」を一つとして受け取って、お互いに精進させて頂くことが大切です。
(2月1日)

「普回向」は菩薩の精神

ご供養では、最後に「普回向(ふえこう)」をあげます。

「願わくは此(こ)の功徳を以(もっ)て普(あまね)く一切に及ぼし 我等(われら)と衆生と皆共に佛道を成(じょう)ぜん」

この一句は、『法華経』の菩薩の精神を、もっとも簡明に表したものです。この意を汲(く)みますと、「自分一人の悟りとか、解脱(げだつ)とかは問題ではない。この功徳は、自分のためのものではなく、世のため、人のためのものであり、願わくは、これによって全ての衆生と共に成仏したい」というのが本旨であります。

宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な言葉がありますが、全くそのことを毎日毎日、朝夕のご供養の中でお互いさまに願い、誓っているのです。私たちは、そういう心を常に忘れないで、精進させて頂きたいものであります。
(2月1日)

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