立正佼成会 庭野日鑛会長 1月の法話から(1)

大聖堂からの朝焼け

1月1日付「佼成新聞」から、庭野日鑛会長の年頭法話「有り難し」を紹介します。

<年頭法話> 有り難し

つらく、悲しい思いをしたからこそ 何が大事かを知り、やさしくなれる

あけまして、おめでとうございます。

会員の皆さま一人ひとりが、さまざまな思いの中で新しい年を迎えられたことと思います。人間が生きるのは、過去でも未来でもなく、いま、この瞬間だけである、と釈尊は教えられています。目の前のことを何よりも大事にし、丁寧に、きちんと取り組んでいきたいものです。

ご承知のように、日本は自然災害が多発する国です。昨年も、熊本、鳥取等で大きな地震が起き、多くの方々が被害に遭(あ)われました。また、台風による水害等も相次(あいつ)ぎました。

私自身、六月に熊本を訪ね、被害の状況を目(ま)の当たりにさせて頂きました。また十月には、東日本大震災から五年半を経た岩手を訪れ、復旧・復興の様子、現在の生活などを見聞きしました。

被災地で信者さんにお会いし、お話を伺(うかが)う中で、私の心に強く残ったことがあります。それは、あれほど困難な経験をした皆さまが、「有り難い」「感謝」という言葉を幾度(いくど)となく口にされていたことでした。

もちろん肉親や友人を失った悲しみは、いまも癒(い)えることがありません。将来に不安を抱いている方も大勢いらっしゃいます。しかし、仏法(ぶっぽう)を支えに、サンガと手を携(たずさ)えて、少しずつ前進していることに、心から感謝をされていました。

多くを失った人こそ、何が一番大事かが分かる。つらく、悲しい思いをしたからこそ、他者の痛みを理解し、思いやりをかけられる――信者さんの姿を通し、そのことを改めて強く感じました。

こうした出会いも踏まえ、私は、「平成二十九年次の方針」を次のように提示しました。

本年も現実の繁雑(はんざつ)に陥(おちい)ることなく、いつも大切なものごとに集中するよう工夫を凝(こ)らし、「テーマ」を持って布教に取り組みましょう。

釈尊が教えてくださった 「有り難し(ありがたい)」 「感謝(ありがとう)」 のこころを、日常生活の中で表現し、実践してまいりましょう。

私たちは、仏さま及び開祖さま・脇祖さまの人を慈(いつく)しみ思いやるこころ、人間本来のこころ(明るく 優しく 温かく)を持って、菩薩道(人道=じんどう)を歩んでまいりましょう。

「テーマ」を持って生きること、明るく、優しく、温かい心で菩薩道を歩むことについては、ここ数年、継続して「方針」としています。

物事は、繰り返し実践して、初めて身につきます。自分は、何を「テーマ」とし、どのような精進を誓ったのか――最初の決意、やる気を思い起こし、常に新鮮な気持ちで取り組んでいきたいものであります。

そして本年は、新たに、『釈尊が教えてくださった「有り難し(ありがたい)」「感謝(ありがとう)」のこころを、日常生活の中で表現し、実践してまいりましょう』と申し上げました。

釈尊の教えを突き詰めると、最後は「有り難し」「感謝」のこころに行き着くと教えられています。それほど大事な精神が、そこに込められています。

「有り難し」「感謝」のこころを 日々の生活で表現し、実践しよう

一般的に私たちは、人に何かをしてもらった時や事態が良い方向に向かった時などに、感謝の気持ちを抱きます。

それは、ごく自然な心の動きですが、釈尊の教える本当の感謝とは、何事もない、ごく普通のことを、心から有り難いと受け取ることであると教えられています。

法句経(ほっくきょう)に「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難し。正法(みのり)を耳にするは難く、諸仏(みほとけ)の世に出(い)づるも有難し」という有名な一節があります。

人が生命を受けることは難しく、必ず死ぬことになっている者が、いまたまたま命があるということは、有り難いことだ。生命を受けたとしても、その生きている間に、正しい教えに接することは、稀(まれ)で有り難く、仏が満ち満ちている世界、地球上のこの世に生まれてくることも難しいことである――このような意味合いです。

日ごろ私たちは、感謝の気持ちの表れとして「ありがとう」と言いますが、その語源は、この「有難し」の一節からきています。つまり、一番のもとは、人として生まれてくることが有り難いということであります。

また私たちは、自分の力で生きているのではなく、両親や祖先はもちろん、周囲の人々、太陽の光、水、空気、動植物など、宇宙の一切合切(いっさいがっさい)のお陰さまで生かされています。

手が動く、歩ける、食事ができる、呼吸ができる、話せる、眠れるなど、すでに恵まれていることがたくさんあります。

さらには、他の動物と違い、極めて高度な知性に恵まれ、理解力を持ち、それを言葉や文字に表して、コミュニケーションを図りながら成長していく「人間」として、この世に生を享(う)けています。

何か特別なことがあったから感謝するというのではなく、そうしたいのちの実相(じっそう)=ありのままのすがた=に感謝をするのが、釈尊が教えてくださる感謝であります。

では、「有り難し」「感謝」のこころを、日常生活の中で表現し、実践するとは、どういうことを指すのでしょう。

第一は、人間として、尊く、不思議ないのちを頂いたことをかみしめ、生きがいを持って、一日一日を精いっぱい生きていくことです。

同時に、宇宙の万物(ばんぶつ)に生かされている自分であるからこそ、自らもまた、他の一切の存在を尊重し、調和して生きることです。

そして、かけがえのないいのちを継承してくださったことに対する感謝の根本(こんぽん)となるのが、親孝行、先祖供養といえます。

仏法と出遇(であ)えたことを深く受けとめると、一人でも多くの人々に真の宗教の価値を知らしめていく手どり、導きが、いかに大切かも分かってきます。

例えば、お店を経営している人ならば、お客さんへの感謝の実践もあるでしょう。温かい笑顔で迎える、優しい態度で接する、居心地(いごこち)のいいようにきれいに掃除をする、といったことも立派な実践であります。

家庭、学校、職場、地域など、自分の置かれた場で、さまざまな実践のあり方が考えられます。一人ひとりが、主体的に考え、行動したいものです。

感謝のできる人間になる それは救われ、幸福と一つ

また、日常生活で特に忘れてはならないのは、「有り難し」「感謝」のこころを、きちんと言葉にすることです。「心の中で感謝している」「言わなくても分かるはず」という人もいますが、やはり言葉で表現してこそ、思いは伝わります。

以前、ある教会を訪れた際、信者さんの報告の中で、お父さんを怨(うら)み、許せないという青年がいました。彼に向かって私は、「感謝ができなくても、うわべだけでもいいから『ありがとう』と言ってみましょう。お父さんがいなければ、あなたは、この世に生まれてこられなかったのですから、そのことへの感謝を口に出してみましょう。そこから道が開けてくると思います」とお話ししました。

心がこもっていなくとも、形だけでも、まず言ってみる。それは、一歩、半歩を踏み出すことです。「型(かた)」から入るのも、実は、とても大事なことです。「型」が整っていくことによって、次第に心も調(ととの)っていくからです。

「感謝する気持ちになったら『ありがとう』と言う」という姿勢では、いつまでたってもできないものです。共々(ともども)に、ほんの少し勇気を出して、言葉で表現してみましょう。

感謝の心は、困難な状況の中で、押し潰(つぶ)されそうになった時、人に大きなエネルギーを与えてくれます。

過日、岩手を訪れた際、東日本大震災で亡くなった幹部さんのご主人にお会いする機会がありました。その方は、奥さんも家も失われましたが、いまは、伴侶(はんりょ)の残した仏法を学び、多くの気づきを得たことに感謝し、「私は生まれ変わりました。ありがとうございました」と大きな声でおっしゃっていました。

悲しみや苦しみを乗りこえるには、なお多くの時間が必要でしょう。しかし、「ありがたい」「ありがとう」と言えるようになった時、人は、いかに痛苦(つうく)な中にあっても、生き抜いていく力を身につけることができる――このことを改めて実感させて頂きました。

感謝の心を持つことは、いわば人間の完成した境地(きょうち)ですから、人の救われ、幸福ということも、その中に含まれるといえます。感謝のできることは、私たちの一番の生きがいであり、まさに救われ、幸福と一つなのです。

また、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)といった釈尊の基本的な教えの真髄(しんずい)も、「有り難し」「感謝」ということの中に込められており、これも一つのことであります。

感謝のできる人間になる――結局、それが、私たちの信仰の目標といえるのではないでしょうか。

愚痴(ぐち)や不平不満を言い続けていると、体調を崩すことになります。いつも明るく、すべてに感謝をしていると、元気になり、病気も快方(かいほう)に向かいます。

一人ひとりが「テーマ」を持って、菩薩道を歩むのはもちろんのこと、お互いさまに「ありがたい」「ありがとう」を表現し実践を積み重ねていきたいと思います。