「法華三部経」の要点

安楽行品第十四(あんらくぎょうほんだいじゅうし)

文殊(もんじゅ)菩薩が、お釈迦さまに教えを行じる者の心得を尋ねます。お釈迦さまは、四安楽行(しあんらくぎょう)を説いて事細かに答えられます。

安楽行というのは「いつも平和な心〈安〉で、自ら進んで〈楽〉、行をなす」という意味です。身の振る舞いと世間の人々との交際上つつしむべきこと、言葉の使い方、心の持ち方、理想実現に向けた努力への誓いの四つがあります。法を説く人は、いつもニコニコと、そして、人の悲しみをわが悲しみと感じる心を持ち、仏さまといつも一緒にいるという気持ちでいることが大切です。

従地涌出品第十五(じゅうじゆじゅつほんだいじゅうご)

他国から来た菩薩が、娑婆の衆生の教化に協力したいと申し出ますが、お釈迦さまはそれを断り、地面から涌(わ)き出た多くの菩薩〈地涌(じゆ)の菩薩〉たちに布教伝道のお役を与えられました。

その菩薩たちは、苦しみや悩みの多い現実の世界〈地〉を経験し、その中で修行を積んで、高い境地に達した人たちです。現実の苦しみや悩みを体験し、そこを突き抜けてきた人は、人々を苦しみから救い出す力を具(そな)えています。そして、地涌の菩薩に娑婆の教化を任されたということは、私たちの幸福は、だれか他の人がもたらしてくれるのではなく、私たち自身の努力によってつくり出さなければならないことを表しています。

地涌の菩薩たちを象徴するのが、「世間(せけん)の法(ほう)に染(そ)まざること 蓮華(れんげ)の水(みず)に在(あ)るが如(ごと)し」という一句です。世間の汚(けが)れの中にいながら清らかに生きる姿は、泥水に咲く蓮華の花のようだということです。人間の理想的なあり方を示しており、社会のすべてをこのように美しくしたいという『法華経』の理想を表します。『妙法蓮華経』という名前はここからきているのです。

この品では、弥勒(みろく)菩薩がお釈迦さまに対し、このような高い徳を身につけた菩薩たちをいつの間に教化したのかを尋ねます。お釈迦さまは、次の「如来寿量品」でそれに答えられます。

如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく)

これまでお釈迦さまは、人間の本質が仏性であることを繰り返し説かれてきました。説法を聞いていた人々も、順々に自らの仏性に目覚めてきました。人々の心境が高まったことを見究(みきわ)められたお釈迦さまは、いよいよ「如来寿量品」で、大いなる一つのいのち〈本仏〉とそのはたらきについて明らかにされます。

大いなる一つのいのち〈本仏〉は、無限の過去から無限の未来まで、宇宙に満ち満ちています。すべてを生かそうとする本仏のはたらきは、いつでも、どこでも変わることなく永遠に存在するということです。お釈迦さまは、自分の本当の姿がこの本仏であり、無限の過去から無限の未来まで永遠に存在していることを打ち明けられたのです。

これは、私たちのいのちも永遠であることを示してくださっています。なぜなら、私たちは皆、本仏の現れであり、本質的には本仏と一つのいのちだからです。さらに、人間ばかりでなく、生きとし生けるものすべては一つのいのちを生きているのです。この「一乗の教え」を心の底から確信できた時、「死」の苦しみという根源的な苦悩から解き放たれます。そして、心を成長させ、世のため人のために尽くす人間になることを迷わず目指せるのです。

うれしいことも楽しいことも、また、悲しみや苦しみも、すべてが私たちを成長・向上させるための導きです。私たちが仏さまの深い慈悲に抱かれ、生かされて生きていることが、「良医(ろうい)の譬(たと)え」によって説かれています。

ある良医〈父〉が旅に出た留守中、子どもたちは誤って毒を飲み、苦しみます。そこに父が帰り、良薬を与えますが、毒のため本心を失っている子どもたちは飲もうとしません。そこで父は再び旅に出て、旅先から使いを出し、自分の死を伝えます。ショックで本心に返った子どもたちは、薬を飲み、父と再会します。

父は仏さま、子は私たち、毒は煩悩、薬は教えです。仏さまはいつもそばにいるのですが、私たち自身が教えを学び、実践しなければ「仏さまのおかげさま」も救いも感じられません。父との再会は、本仏と共にあること、つまり、大いなる一つのいのちに生かされていると自覚することを表しています。

仏さまは、深い慈悲の心で私たち一人ひとりを案じ、どうしたらより良く成長・向上できるかを常に念じてくださっています。これこそが仏さまの“本願”なのです。

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