「法華三部経」の要点

化城諭品第七(けじょうゆほんだいしち)

修行を続けていけば、だれもが仏になれることを弟子たちに確信させるため、お釈迦さまは、仏と弟子たちが過去世から深い因縁で結ばれていたことを説かれます。

これは、『法華経』と出遇(であ)った私たちも仏さまと深いつながりがあることを表しています。さらに私たちは、教えに結縁(けちえん)することができた直接の恩師である開祖さま、脇祖さま、そして会長先生、僧伽(さんが)との深い仏縁を自覚することが大切です。

「化城宝処(けじょうほうしょ)の譬え」では、宝〈仏さまの悟り〉を求めて険しい道のりを歩む人々が、途中で疲れ果ててしまいます。それを見た導師〈仏さま〉は、仮の城〈方便の救われ〉を現して皆を励まします。そして、宝のある場所〈仏さまの悟り・真実の救われ〉に向かい再び歩き出します。

たとえ自分が教えによって救われ安穏な生活を送っていても、苦しむ人がいる限り私たちの本当の幸せはあり得ません。私たちは皆、仏さまの子であり、共に仏道を歩む善き友なのです。在家仏教は、みんなが救われる人であると同時に、みんなが救う人になるということです。多様な人が、多様な人を救う、無数の方便が生まれるということです。すべての人が仏法によって救われるよう、互いにテーマや目標を掲げて自らを高め、精進してまいりましょう。

五百弟子受記品第八(ごひゃくでしじゅきほんだいはち)

説法第一といわれた富楼那(ふるな)をはじめ、たくさんの弟子たちが授記されます。

自分も仏になれることを知った弟子たちは、お釈迦さまは常に仏の智慧を得るために説いてくださっていたのに、それに気づかず、ただ煩悩を除くだけで満足していたことを、「衣裏繫珠(えりけいじゅ)の譬え」によって懺悔します。

貧しい暮らしをしている男〈私たち〉が、親友〈仏さま〉に会いました。酒に酔い、寝ている男の着物の裏に、親友は、宝珠(ほうじゅ)〈=仏性〉を縫いつけます。ところが、男はそれに気づかず、暮らしぶりは以前と変わりません。しばらくして、親友と再会し、初めて宝珠に気づきます。

私たちの本質は、仏性そのものであり、本来、仏の智慧と慈悲を具えた尊い存在です。それは今すでに、救われていることを意味しています。ところが、その事実を知らないために、目先の欲にとらわれ、不平不満の心を募らせてしまうのです。

自分の本体は仏性であり、仏さまの分身であるとの思いをしっかり定め、すでに頂いている宝に気づく。それが真理・法に目覚めるということです。感謝の人生はそこから始まります。

授学無学人記品第九(じゅがくむがくにんきほんだいく)

お釈迦さまのいとこであり、身近でお世話をしていた阿難(あなん)と実子の羅睺羅(らごら)をはじめ、多くの弟子たちが授記されます。

阿難や羅睺羅の授記が他の弟子より遅れたのは、身近な人の教化の難しさを表しています。家族や身近な人の姿は、自分が教えの通りに行っているかどうかを映し出す鏡です。ご宝前を中心としたぬくもりのある生活が営まれているか。悪をなさず、善をなしているか。愚痴を言わず、感謝ができているか。そうした日常の行いこそが大切です。

【次ページ:法師品第十、見宝塔品第十一、提婆達多品第十二、勧持品第十三】