共生へ――現代に伝える神道のこころ(15) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

髙野神社の参道入り口のムクノキ。この地はかつて巨木が立ち並ぶ宇那提の森と称され、万葉集など多くの歌に詠まれた

未来を共に――生活になくてはならない自然の恵みに感謝の念を持って

前回、SDGs(持続可能な開発目標)の取り組みについて樹木と日本の神との関係や、伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)と造替後の古材のリユースに関わる事例を取り上げた。世界的な課題となっているSDGsの推進と神道の共生の理念というものを考える上で、今回は神道の自然観について少し触れたい。

江戸時代中期の垂加神道家の一人に若林強斎という人物がいる。強斎は日本史の教科書にも登場する垂加神道の大成者である山崎闇斎の弟子浅見絅斎に学び、「浅見三傑」の一人と呼ばれた人物だ。強斎が記した『神道大意』は、神道の神観より説き起こし、日本の道統、神道の本質について論じた書である。この中には、神道の自然観を語る上で興味深い点があるため、同書の一節を紹介しておこう。

「おそれある御事なれども、神道のあらましを申奉らば、水をひとつ汲といふとも、水には水の神靈がましますゆへ、あれあそこに水の神罔象女(みつはのめ)様が御座被成て、あだおろそかにならぬ事とおもひ、火をひとつ燈(とも)すといふとも、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座なさるゝゆへ、大事のこととおもひ、わづかに木一本用ゆるも、句々廼馳(くくのち)様の御座なさるゝもの、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座被成ものをと、何に付角に付、觸るゝ處(ところ)、まじわる處、あれあそこに在(まし)ますと、戴きたてまつり、崇(あが)めたてまつり、やれ大事とをそれつゝしむが神道にて、かういふなりが則常住の功夫(くふう)ともなりたるものなり」

強斎は、生活にとって必要不可欠な水の恵み、さらに火や木、草など自然界のさまざまな恵みに対し、大切なものとして感謝の念を持って崇め奉ること、それが神道であると説明している。また、「常住の功夫」と説くように、自然の事物を神々と崇め祀(まつ)り、自然のもたらす恵み、有り難さゆえに山川草木を濫(みだ)りに取り扱うのではなく、恐れと謹みの念を持って自然と上手に付き合うべきであると説いている。

古来、日本人は水一つとっても、一般的な水を表す神というもので済ませるのではなく、形を自在に変えられる水の特殊性から生じるさまざまな現象を「水の神」として崇めてきた。水神といってもミツハノメノカミ(罔象女神)のように、水そのものを示す神だけではなく、水の分配を掌(つかさど)る水分神、水溝の神などがある。ミツハノメノカミは『古事記』で弥都波能売神と表記され、イザナミノミコトが火の神であるカグツチノミコトを生み、病臥(びょうが)して尿を出した際に成りいでた神で、『日本書紀』ではミツハノメに「罔象」という漢語を用いている。「罔象」は、中国の古典『淮南子(えなんじ)』の第十三「氾論訓」に「水、生罔象。(水に罔象を生じ)」とあり、その注には「水精也」とあって水の精霊を意味している。

また、「ミツハノメ」の語源は、国語学者の西宮一民氏の神名解釈によれば、「水の早」であり、「出始めの水の女」と解されている(西宮一民校注 新潮日本古典集成『古事記』)。さらに、水分神(吉野水分神社などに祀られる)は、天から雨が降った際、その雨水は山の分水嶺(ぶんすいれい)で水を分配することから、貴船神社や大山阿夫利神社(神奈川県)などに祀られる高龗神(たかおかみのかみ)とともに祈雨の神としても信仰されている。こうした事実から見ても、日本人は水の神一つとっても罔象女神だけではなく、水の持つあらゆる場面、側面をそれぞれ神聖なものと考えて、神名を与えて信仰、崇拝してきたと言えよう。

大山阿夫利神社が建つ大山は別名「あめふり山」と呼ばれ、雨乞い信仰の中心地として広く親しまれてきた

海の神にしても同様である。日本神話では綿津見神(わたつみのかみ)のみならず、綿津見の三神と共に成りいでたとされるのが大阪府の住吉大社に祀られることでも知られる底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)だ。また、天照大神(あまてらすおおかみ)と素戔鳴尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)で成りいで、福岡県の宗像大社(むなかたたいしゃ)に祀られることでも知られる田心姫神(タゴリヒメ=沖津宮)、湍津姫神(タギツヒメ=中津宮)、市杵島姫神(イチキシマヒメ=辺津宮)という宗像三神などもある。さらに見れば、日本人は水が流れ、動いていることに大きな霊性、神秘性を感じてきた。それゆえ、水が集まり大きな流れとなって動く川を蛇や龍などの姿と捉え、これを信仰してきたのである。

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