立正佼成会 庭野日鑛会長 9、10月の法話から

9、10月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

修行の心得

道元禅師は「本来、人間は仏だと説かれているのに、なぜ修行しなければならないのか」という大きな疑問を持たれました。

出家されたお坊さんは頭を剃(そ)ります。われわれ在家の者も、男性ですと毎日ひげを剃り、女性の方はお化粧をします。それは人に失礼がないようにしているわけです。そのことが、いわば毎日、発心(ほっしん)していることになるのです。

毎日、発心して、それを繰り返して、一生を終えていく。ちょうど「即是道場(そくぜどうじょう)」ではありませんが、朝、発心して、修行して、その日を終わり、また翌朝起きて、発心して、修行して、と繰り返すのが、私たちの修行のあり方ではないか。そのような意味合いのことを道元禅師は述べられているのです。
(9月1日)

感謝を持って生きるとは

私たちは、親に頼んで生んでもらったわけではありません。頼まなくても、生んで頂いたのですから、大変有り難いことです。ところが、とかく私たちは、自分の足がちょっと短いとか、文句を言うことがあります。

人間は、そもそも仏さまの教えを理解できる知性と感性、そして仏性を持ち合わせて生まれてきました。そうした人間に生まれてきたことに、いつも文句を言ったり、小言を言ったりすることが、いわゆる不殺生戒(ふせっしょうかい)にあたる、自分のいのちそのものを殺していることになる、と仏教では教えています。

授かったいのちを人さまのために役立てることは、自分のためにもなっていきます。ご法をお伝えするとは、それを自分がしっかりと理解して、消化して、人さまに教えて差し上げることで、そうしたことができる人間、菩提心を起こした人間、人さまをお導きする人間になるわけです。ですから私たちは、生んで頂いたことに感謝して、文句を言わずに、今、人間として素晴らしいいのち、身体を頂いていることを常に思い返して、精進させて頂くことが大事なのです。
(9月1日)

障壁を乗り越えるには

「窮(きゅう)すれば通(つう)ず」という言葉があります。問題に直面して行き詰まり、困り果てると、かえって活路が開けてくる、という意味の言葉として日本でも使われています。この言葉は、本来、中国の『易経(えききょう)』に出てくる「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という言葉であり、最初の「窮すれば」と、最後の「通ず」をくっつけ、あとは省略して、「窮すれば通ず」となったのです。

今、目の前に、乗り越えなければならない障壁、難題があるとすると、私たちは、それを何とか解決しようとします。つらい現実から逃れようと、さまざまに手を尽くすわけです。ところが現実には、思うようにならなかったり、一層こじれたりします。

そうした時に大事になるのが、「窮すれば変ず」ということです。これは文語体で表現されていますから、今の言葉で表現すれば、「変ず」とは「変える」、あるいは「変わる」ことです。今までの考え方や価値観、やり方などを変える。そして柔軟(にゅうなん)に新しいものを取り入れていく。そのためには、まず一番頑固な自分自身が変わること――それが、「窮すれば変ず」の肝心なところです。

私たちは、問題が起こると、自分ではなく、相手や環境を変えようとしがちです。しかし、それでは根本的な解決には至らず、いつまでも火種がくすぶり続けます。困り果てた末に、「もしかしたら、自分にも原因があるのではないか」と、ふと気づく。そこから新しい展開が生まれ、次第に活路が開けていきます。

「大変」という言葉がありますが、これは「大きく変わる」と読むことができます。窮地に陥り、苦しい時は、自分が大きく変わっていく貴重な機会であるのです。

日本だけでなく、世界中がコロナ禍にあり、本当に大変な時期を迎えています。これまでに経験したことのない課題に直面しています。「窮すれば変ず、変ずれば通ず」――この言葉が、今ほど大切な時はないのではないかと思います。
(9月10日)

吾日に吾が身を三省す

論語には、「吾(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す」という言葉があります。この「三」という字は、単なる数字の三という意味ではなく、ここでは、「しばしば、いろいろなことが反省させられる」という意味になります。

「省」には、「省(はぶ)く」という意味もあります。ややこしいこと、無駄なことがあれば、それを省くという意味合いです。私たちは日ごろ、無駄なことを結構抱えていたり、その無駄なことを心配したりしていますから、この「吾日に吾が身を三省す」は、日常生活の中で大切にしていかなければならない言葉ではないかと思います。

「省(かえり)みる」「省く」ことを、日ごろ、常に自らに当てはめて精進をさせて頂きたいものです。
(9月10日)

“自分”を見失うことなく

「忙しい」の「忙」という文字は、左の立心偏(「忄」)が「心」の意味であり、その右に「亡」、亡(な)くなる、亡(ほろ)ぶという意味の字を書きます。

人間は忙しいと、自分をなくし、どうしても手抜かりが起こってきます。ですから、省いてもいいものは省いて、なるべく忙しくならないようにすることによって、心を見つめる時間が多くなります。

私たちは、この「多忙」ということをよくよく考えて、そこから抜け出られるようにしたいものです。あまりにも忙しいと、自分の心を失ってしまうことにつながります。私たちは、何事も「明白簡易(めいはくかんい)」(明らかで疑う余地のないこと、物事を簡単にしていくこと)にし、いつも心を見つめて、仏道修行させて頂くことに力を込め、精進をさせて頂くことが大切であるのです。
(9月15日)

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