おもかげを探して どんど晴れ(6) 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)

画・笹原 留似子

東日本大震災百物語

東日本大震災から7年が過ぎました。私は被災者の皆さん、ご遺族の皆さんと一緒に「いのち新聞」という活動をしています。震災が発生した年の秋からのスタートですが、新聞の内容は遺族という立場から、記事をまとめて発信していくというものです。遺族と話し合っている中で、一人ひとりの気持ちが亡き人の存在により輝いているように感じたため、新聞作りを私が提案しました。

遺族が集まることから、死を取り扱うことが多い「いのち新聞」では、幽霊に遭遇した話なども持ち込まれることが多くあります。私の所には東日本大震災の不思議な体験談もたくさん持ち込まれます。私はその話を「東日本大震災百物語」と名付けました。記録として遺(のこ)していきたいと思っています。今回はその中から一つを紹介します。

――体育館に響くボールの音――

その体育館は当時、警察管轄の安置所として使われていました。多い時には200名以上の方が安置されていたこともありました。

その中には身元不明者も多く、警察官が一つ一つの棺(ひつぎ)の横にひざまずいて、嫌な顔一つせず亡くなった人の世話をしてくれました。「さぁ、安置所が開く時間ですよ」。家族の心の負担を少しでも軽くするために、亡くなった人の顔などに変化があれば、こうして毎朝夕に拭いて、被災者遺族が対面する前にきれいにしてくれていました。

安置所には連日被災者遺族が家族を捜しに来たり、会いに来たりと多くの人が慌ただしく出入りしていますが、実際は津波の被害で帰る家もなく、連れて帰る家もないため、安置所で警察官に家族を守ってもらいながら火葬の順番を待っていました。通常であれば、2日から待っても7日間くらいで火葬の順番が来ますが、東日本大震災では約2万人が犠牲になったことで火葬までの順番待ちは1カ月を優に超えていました。

発生から4カ月後の7月末、火葬の順番を待つことなく、たくさんの人が出入りした想い出が詰まった大きな警察管轄の安置所は、閉鎖されました。

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