利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(16) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

道徳心の衰退と政治哲学

ところが、この事態に立ち至っても、内閣の支持率はまだ30%くらいあるとされている。さまざまな理由があるにしても、この「公的な嘘」を許容して政権の継続に与(くみ)する国民がまだそれだけいるわけだ。

実際、学生などの若い人にもそういう意見の人は少なくない。他に重要な政策的問題があるとか、自分の権利や利益が直接に侵害されたわけではないとか、今後信頼を回復させる可能性もある、というのだ。

今の政権の政策を支持するかどうかという問題とは別に、公的な嘘をあまり深刻な問題と考えない態度が広がっていることは衝撃的だ。道徳的な善悪をあまり重視しない人が増えているわけだ。いわば「道徳的不感症」と言ってもいいだろう。これは憂うべき問題である。

ここには政治哲学の問題もある。今日の世界においては、「善い生き方」とは私的な問題であり、正義を問う公共的論点においては、善い生き方か否かを勘案するべきではないという考え方(リベラリズム)が広がっている。そうなると、道徳的な善悪は公共的ではなく私的な問題だから、政治家の進退に関係しないということになる。倫理的に問題がある政治家でも、国民の多くが良いと思う政策を実行するなら問題ないというわけだ。実際、私的な倫理的問題は政治家の進退とは関係ないという意見がある。

倫理道徳と政治的道義の復興を

でも、これは間違っている。「信なくば立たず」というように、人々の信頼を失えば議会政治は成り立たない。しかも実際には政治家の人格は政策の遂行に影響しうる。収賄をしていなくとも、公的なお金を私的に親しい人のために不当に使うなら、税金を払っている国民に損害を与えていることになる。だから「嘘つきは泥棒の始まり」という文句が思い出されるのだ。

よって道徳的善悪も、政治に関わる場合には公共的に議論され、考慮されるべきである。それは私的な道徳の問題であると同時に、公共的な正義の問題でもありうるからだ。仮に法的な罪に相当しなくとも、議論して「不正義」と広く判断されれば、政治家は自ら潔く責任を取らねばならない。

そうでなければ、トップにならって官僚や国民まで悉(ことごと)く道徳に反して平気で嘘をつき、正義に反する行いが明らかになっても反省せずに平然と居直ることを押し通す社会になりかねない。そのように「モラルなき国家」は、いずれ大きな失敗をして、破滅しかねないだろう。

道徳と正義をあわせて「道義」という。右翼的な人の方がこの言葉を用いる傾向があるが、これは政治的な立場を超えて大事なことだ。国民の道義心、そして国家の政治的道義を、私たちは本気で復興させる必要がある。そのためには哲学者や道徳の教師だけではなく、宗教の果たすべき役割も大きい。倫理道徳の基礎は、歴史的には宗教が培ってきたからだ。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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