イスラームの世界~あなたの上に平安あれ(6) 文・奥田敦(慶應義塾大学教授)

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター

天使に会ったことがありますか

年齢のせいにはしたくはないし、かといって忙しさのせいにもしたくはないのだが、忘れ物や落とし物を立て続けにしてしまって、辟易(へきえき)としたという経験をお持ちの方はきっと筆者だけではないはずだ。

もう数年が経つが、どうにも財布が見つからなくなったことがある。記憶をたどると、どうやら行きつけのセルフのガソリンスタンドで落としたらしい。運よくお店のレシートが出てきたので、電話すると、「預かっています」と女性の店員さんの明るい声。運転免許証もその中なので、1キロほどの距離を歩いてスタンドへ。オフィスへ行くと素敵(すてき)な笑顔とともに長財布が戻ってきた。アルハムドゥリッラー(すべての称讃=しょうさん=はアッラーにある)である。

やれやれと思ったのも束(つか)の間。その数日後だと記憶しているが、今度は、戸塚駅で横浜市営地下鉄からJR東海道線への乗り換え時のこと、1本前の列車に乗ろうと、いつも以上のスピードで地下鉄の階段を駆け上がり、JRの改札口へ突入。Suica(スイカ=交通系ICカード)をタッチしようとしたところ財布の中のカード入れから、Suicaを含む5枚程度のカードがすっぽりと抜け落ちて影も形もない。改札機のとば口で急停止だ。とその時、後ろからすっとカードの束が差し出された。

振り返ると、年配の女性が、「これで全部だと思いますよ」と、駆け抜けてきたコンコースでばらまいたであろうカードを拾って、笑顔とともに差し出してくれていたのである。これには、本当に驚いた。アルハムドゥリッラーである。

ホッとする出会いと励まし

こんなとき人は何を思うであろうか。拾っていただいた方への感謝はもちろんであろうが、宝くじでも当たったかのように自分は本当に運がよいと有頂天になるであろうか。それとも、自分はどうしてこんなに落とし物ばかりするのだろうと、落胆し自分を責めて絶望するであろうか。気が付いただけでもこのペースで忘れ物、落とし物をしているのだから、知らぬ間に大切なものをどこかで落とし、またどこかに捨て置いているかと思うとぞっとする。それはともかく、良いことがあるとすぐ有頂天、悪いことがあるとすぐ絶望するとは、「弱い」「性急」「吝嗇(りんしょく)」「自分勝手」「議論好き」「独りよがり」「不信心」「恩知らず」などとともにクルアーンの中に見出される人間の本性だ。

こうしたいかんともしがたい本性を持ちながらも、そしてその本性ゆえの愚かな失敗を繰り返しながらも、それでも、清く正しく美しく生きようとするのも人間だ。そんな風に人間を動かしてくれるのが、ルーフ(聖霊、霊魂、魂)と呼ばれる人間の内面である。イスラームの教えによれば、人間は土からできた包みに五つの内面が含まれているという。ルーフはその一つに位置づけられるが、身体にいちばん近いところから、自分自身、理性、心、霊魂、秘奥(ひおう)である。

自分自身とは欲望欲求の受け皿である。その内側の理性は、見えるものと見えるものを因果関係でつないで考える。さらに、その内側の心は、目に見えない世界があることを感じる。そしてその内側にある霊魂は、アッラーから吹き込んでもらったもので、アッラーの命令の通りに動こうとする。さらにその内側にあるとされる秘奥は、そこから世界に溶け出すことができる内面とされるが、神秘主義者たちによって主張される箇所なので、ここではこれ以上深入りしない。

幸運に有頂天になり、困難に絶望するのは、自分自身の部分であり、心の部分である。これに対して、アッラーの命令のままに動こうとするのがルーフである。土からできた人間は、自分の欲望欲求のままに生きようとする一方で、アッラーからルーフを吹き込んでもらっているお陰で、たとえ地縁、血縁でつながっていなくとも、慈しみの心で、周りに優しくできるのだ。

ところで、イスラームの教えによれば、光の包みに包まれているのが、天使であり、火の包みに包まれているのが、幽精(ゆうせい)であるとされる。光の包みなので目に見ることはできないが、その中にルーフだけが吹き込まれているのが、天使なのだ。自分自身という厄介(やっかい)なものを持たない天使は、アッラーの命令に逆らうことを知らない。いつもアッラーの仰せの通りに行動する。

人間は、もちろん天使ではない。しかしイスラーム教徒であるなしにかかわらず、すべての人間にこのルーフは吹き込まれている。ということは、天使ほどではないにしても、人間もまた、アッラーの命令の通りに動くことがありうるということだ。アッラーは、肌の色や瞳の色が違ったり、世間の評判が良かったり、お金や権力を持っているからといって、人々の間に優劣をつけることをしない。したがって、アッラーの命令通りに動くということは、人を分け隔てしないということだ。

だから、そんな行動をしている人を見たとき、僕は天使と出会ったと考えるようにしている。家の近くのガソリンスタンドで、そして戸塚駅で、僕は天使に出会ったのだ。いやそれだけではない。数えきれないたくさんの天使的な行動をする人々に支えられて、今日も何とか無事に生きることができている。アルハムドゥリッラー。そんな風に考えると、ほっと心が温かくなる。明日への希望も湧いてくる。

良きたましいは、良きたましいを呼びおこす

「人の良い所を見つけて、付き合うようにしなさい」とは母の教えである。良いたましいは良いたましいと一緒にいることが最大の栄養だともされる。もちろん、人はいつも天使なのではない。天使になることもあれば、ときには悪魔になることだってありうる。たましいが特定の民族の魂という言説にすり替えられて、気が付くと自分たちと周りの間に線を引こうとしていることさえある。実に、たましいの正しい理解は欠かせない。

だから、この世の真理に即した良いたましいの持ち主であることを十分に意識しながら、たましいの保持者同士として励まし合って生きていく。そこにあるのは、心身の合一ではなく、心身霊の合一だ。そんなたましいレベルの付き合いが広がり、深まっていけば人生の大きな忘れ物、落とし物からも救われるのではないかと思うこの頃である。

プロフィル

おくだ・あつし 1960年、神奈川県生まれ。1984年、中央大学法学部卒。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。法学博士。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員。SFC研究所イスラーム研究・ラボ代表。シリア国立アレッポ大学学術交流日本センター副所長。専門はイスラーム法およびその関連諸領域。著書・訳書・論文・共著の書籍など多数。『イスラームの人権―法における神と人―』(慶應義塾大学出版会)は、イスラームの心を伝える日本では数少ない著作である。