イスラームの世界〜あなたの上に平安あれ(4) 文・奥田敦(慶應義塾大学教授)

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター

アルハムドゥリッラー すべての称讃はアッラーに

昨年の熊本地震。4月14日の夜の前震から16日未明の本震、その後も九州が揺れ続けた。多くの人々が命を奪われ、多くの家屋が倒壊あるいは倒壊の危機にさらされ、一時期は電気、ガス、水道、交通機関などが完全に麻痺(まひ)した。多くの人々が避難生活を強いられ、その間、子供たちも困難な通学を余儀なくされ、感染症やエコノミークラス症候群による二次的、三次的な被災が深刻の度を増し、対応が求められた。あれから1年、思われているほど復興が進まないという報道が盛んになされる昨今である。

2011年の東日本大震災、そして熊本地震。予報はもちろん、予測も立たない自然の猛威。人間の無力さ、科学の無力さを思い知らされる。誰のせいにもできない事態、自分を責めようにも責めることができない事態に、「仕方ない」と肩を落としつつも、それでもがんばろうとする人々、そうした人々を励まそうと支援に奔走する人々。無力さを力に変えていくのも、人間の素晴らしいところだ。手に負えない事態がそうした人間の力を引き出してくれていると見ることさえできそうだ。

全国のイスラーム教徒から寄せられた救援物資(写真=福岡マスジド提供)

そんな場面に出くわした時に、ぜひとも口にしてほしいアラビヤ語のフレーズがある。「アルハムドゥリッラー」である。

この言葉、イスラーム教徒が1日5回の礼拝で、合計17回唱えることになる聖典クルアーンの開端章の第2節に下されてもいる言葉で、「すべての称讃は、アッラーにある」、あるいは「究極的に褒め称(たた)えられるべきはアッラーである」といったニュアンスの言葉である。アラブ人に限らず、日本人ムスリムなども含め、イスラーム教徒たちの日常では、本当によく使われる。

かがやく心 感謝の行方

そんな風に、支援が届き、人々が立ち直るのは、一人一人も素晴らしいけれど、周りも素晴らしい。直接現場で支援に携わる人々も素晴らしいが、人知れず、支援物資を送り、義捐金(ぎえんきん)を寄付する人々も素晴らしい。いやいやそれだけではない、支援物資を送る業者の方や、道路や鉄道を安全に整備する人々だってすべて素晴らしいのだ。もうすべての人に感謝だし、すべての人が褒め称えられなければならないが、とても数えきれないし、感謝や称讃を伝えることもできない。

福岡マスジドに集積された救援物資は熊本へ。現地では炊き出しも行われた(写真=福岡マスジド提供)

ただ生かしていただいているだけでなく、震災に直面した私たちをこんな風に動かしてくださった大きな存在が実は存在するということも大切だ。こう考えていくと最終的な感謝、称讃が向けられるべきは、その大きな存在、つまり、すべてを包んですべてを御存知ですべてを創り動かす御方アッラーということになる。そこで、「すべての称讃は、アッラーにある」となるわけだ。

つまり、称讃や感謝の対象は、実は、自分でも、目の前で自分を励ましてくれる誰かでもないということ。自分を褒めるな、とか、人に感謝するなと言っているのではない。褒め称え、感謝すべきもっともっと大きな存在があることを忘れずにいましょうね、ということである。普段から、どんな些細(ささい)なことでも「ああ、よかった」「助かった」と思った時に「アルハムドゥリッラー」と言ってみる。そうすれば、その言葉から称讃と感謝が無限に広がる。そこには、顰蹙(ひんしゅく)を買うような思い上がりも独りよがりもない。さらにそれをみんなが口ずさめば、自分たちが生きていることに対する称讃と感謝が世界の隅々にまで行きわたるというものだ。

負の現象も受け入れ、希望につなげる

ところで、不運にも結果に恵まれなかった場合にも用いられるのが、この言葉である。試験に落ちた、遅刻した、事故にあった、忘れ物をした、病気になった、家族や友達とうまくいかないなどなど、考えてもみれば人生、失敗の連続だ。たいていは忘れてしまうけれど、時に悔やんでも悔やみきれないような失敗もある。「なぜあの時そうしたのか」「あの時ああしておきさえすれば」と自分を責め、あるいは周りを責め続けている人もいるかもしれない。どうしようもないと思いつつも、責め続け、許すことができない。楽になりたいのに。

「すべての称讃はアッラーに」。現実を受け入れ、希望につなげる言葉だ(写真=福岡マスジド提供)

そんな時、「アルハムドゥリッラー」と言ってみる。自分も悪いかもしれないし、周りも悪いのかもしれない、しかし、こんなことになったのも、アッラーがそうさせた結果に他ならない。そうすれば自分も周りも責めずに、あるいは責めすぎずに済む。そうではなく、まずは現実をしっかりと冷静に受け入れることにつながる。「仕方がない」とただ単に諦めるのではない。受け入れることができれば、次にどうするのかも考え始められるというもの。気に病むことはない、アッラーはその人の能力以上を課すことはしない。解けない問題はないのだ。その意味で、「アルハムドゥリッラー」は、ここでも希望を引き出す言葉である。

放っておけば人間は、いいことがあるとすぐ有頂天になり、悪いことがあるとすぐ絶望する。そんな風に振り回されるのが人生と言えばそうかもしれないが、それが悲しすぎる人災にならないとも限らない。それにすぐ度を越えるのも人間だ。だからこそ、究極の称讃と感謝で世界を満たし、現実を受け入れ、希望につなげる「アルハムドゥリッラー」が、頼りになる。

熊本地震が引き出してくれた「アルハムドゥリッラー」が、みんなの心に輝き続けてほしいと祈るばかりだ。

プロフィル

おくだ・あつし 1960年、神奈川県生まれ。1984年、中央大学法学部卒。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。法学博士。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員。SFC研究所イスラーム研究・ラボ代表。シリア国立アレッポ大学学術交流日本センター副所長。専門はイスラーム法およびその関連諸領域。著書・訳書・論文・共著の書籍など多数。『イスラームの人権―法における神と人―』(慶應義塾大学出版会)は、イスラームの心を伝える日本では数少ない著作である。

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター