イスラームの世界~あなたの上に平安あれ(3) 文・奥田敦(慶應義塾大学教授)

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター

人間の絆を育むラマダーン

世界中のイスラーム教徒たちが、今年は、5月の下旬から1カ月にわたって断食する。 しかし、なぜ彼らは、断食するのだろうか。私もかつて在外研究中のシリアで、この質問をされ、「断食をすれば食べられない人の気持ちがわかるから」と答えた記憶がある。ところが、これがまったく、残念なくらい浅い答えなのだ。

こんな想像をしてみてほしい。朝から仕事に追われて、何度かの空腹の山場を乗り越え、気が付いたらもう夜の8時。そんな時であれば、ちょっとしたお菓子でもすごくうれしいし、おにぎりに熱いお茶などあれば、最高だ。五臓六腑(ごぞうろっぷ)にしみわたっていく感じ、生きているな、うれしいなと実感するように思う。

断食というと、どうしても苦行のイメージが先行するから、「苦しみを理解するため」などに理由を求めがちだが、実は、ラマダーンには二つの喜びがあるとされる。その一つが、食べた時のこうした喜びなのだ。

ちなみに、ラマダーンというのはイスラーム暦第9月の名前。断食それ自体を指す言葉ではない。イスラーム教徒たちは、この1カ月間、日の出の約1時間半前から、日没までの間、飲食を断ち、欲望を控える(断食だけではないので、より正確には、斎戒=さいかい=と言う)。そこから、ラマダーンが斎戒の代名詞のように使われるのだ。なお、イスラーム暦は太陰暦で、1年が355日である。したがって、ラマダーン月は1年間で11日ずつ前に倒れてくる。夏になることもあれば冬になることもある。約30年で元に戻る勘定になる。

ところで、ラマダーンを行う時には、必ず自らの意志によって行わなければならない。本能の命令ではなく、自らの意志で何かを行うことができるのは、人間だけ。とはいえ、決めたことが守れないのもまた人間。ということは、決めたことがきちんと実行できれば、それこそ人間であることが証明されるというものだ。ラマダーンというのは、「あなたが人間であることを証明する1カ月なのだ」と教えてもらい、私自身も、シリアでまだイスラーム教徒になる前からラマダーンを始めた。

ラマダーン・ナイト。昨年、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで行われた夕食会では、留学生とその家族、学生、教職員が交流を深めた(慶應義塾大学SFC奥田敦研究室提供)

素晴らしさは、誰でもが参加できるということ

話を元に戻そう。さて、仕事が長引いて、8時を過ぎてようやく何かを口に入れた後、仕事も片付き、今日はよく頑張ったよねと言って同僚たちと食事に出かければ、きっとその食事は、おいしいし楽しいし、仲間との絆は強まるし、明日も頑張ろうという気持ちにもなる。そんな気持ちに浸れれば、その日、夜まで食べられなかったことなど忘れてしまっているかもしれない。

このことはイスラームのラマダーンにおいても同じで、その1カ月間、世界17億人のイスラーム教徒たちが、信徒の務めとして斎戒し、皆でこの喜びに浸り、仲間との絆を強める。空腹という生理現象から逃れることのできる人は、一人もいない。つまり人類に共通だ。人種や民族や国籍の違い、言語や文化の違い、あるいはお金を持っているか持っていないかでお腹(なか)の空(す)き方に違いが生じるわけがない。お腹が空けばひもじいし、悲しい。そんな時に食べれば、うれしいし、誰だって幸せな気持ちになる。それを皆で分かち合おうというのだ。

このラマダーンの素晴らしさは、誰でもが参加できるということ。朝ごはんを早めにとって、昼一食を抜くだけ。もちろんその間、水も断たなければならないが、いずれにしても、食べない、飲まない、欲しないというだけのことだから、行為自体は非常に消極的。健康な人であれば誰にでもできること。大学受験や資格試験の合格や、スポーツの試合の勝利を得るためには、受験勉強にせよ、試合に勝つための練習にせよ、かなり積極的に行為に努めない限り、達成感を得ることができないのとは対照的だ。

しかも、受験にせよ、試合にせよ、そこには、必ず不合格者がいて、敗者がいる。そのことを考えると、自分たちの血の滲(にじ)むような努力が、実は別の誰かを悲しませることにつながっているということになる。受験であり、試合である以上は仕方のないことだが、その点、ラマダーンでは、全員が勝者になれる。しかも、空腹とそれが満たされた時の幸せがベースなのだから、人を選ばない。言葉が違っても、国籍が違っても、お金持ちでも、貧乏でもみんなが勝者になれるのだ。

忍耐を二倍の喜びに変える

慶應義塾大学SFC奥田敦研究室提供

日本には、ラマダーンの習慣はない。しかし、たびたび戦争や大災害によって、疑似的なラマダーン状態が強いられてきた。たとえば戦時中、空爆などの恐怖に晒(さら)されながら、しかも乏しい栄養状態の中で人々は忍耐を重ねた。1年に1カ月というようなやさしいものではない。3年から4年にわたる長期に及んだ。ただし、そのことがあまりにつらい体験であったため、子供たちにはそんな思いはさせたくないとの一心で、戦後の日本がつくられていったところがあると思う。その結果、忍耐を知らない世代が生まれてしまったとするなら、ずいぶん皮肉な話だ。

しかも、困ったことに、たとえ戦争の歴史を自分たちの歴史にしようとしても、そこには、それこそ勝者と敗者がいる。戦争中の忍耐は、すべての人々を喜ばす忍耐ではない。逆に言えば、この手の忍耐をまとめてやろうとすると、戦争になり、大災害になってしまう。であるとするならば、1年に1カ月間だけ、皆でやる、皆が、生きていることを取り戻し、人々の間の絆を取り戻す。敗者のいない忍耐。こういう忍耐をベースに社会をつくっていけば、戦争の必要のない、つまりアイデンティティの拠(よ)り所としての戦争(勝ち戦にせよ、負け戦にせよ)を必要としない社会が立ち上がる素地をつくることができるのではないかと思う。

さらに、アッラーを信じている人々にとってラマダーンは、来世で楽園に迎え入れられることも可能にしてくれる。来世で主に見(まみ)えて、斎戒に対して与えられる報いの喜び。これがラマダーンのもう一つの喜びである。斎戒という忍耐が二倍の喜びになって返ってくる。まさに、この世でもよく、あの世でもよく生きるための教え、イスラームだ。今年のラマダーンは、新月の具合によるが5月27日から6月24日まで。人間であることの証明に一日ぐらい参加してみてはいかがであろうか。

プロフィル

おくだ・あつし 1960年、神奈川県生まれ。84年、中央大学法学部卒。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。法学博士。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員。SFC研究所イスラーム研究・ラボ代表。シリア国立アレッポ大学学術交流日本センター副所長。専門はイスラーム法およびその関連諸領域。著書・訳書・論文・共著の書籍など多数。『イスラームの人権―法における神と人―』(慶應義塾大学出版会)は、イスラームの心を伝える日本では数少ない著作である。