イスラームの世界~あなたの上に平安あれ(2) 文・奥田敦(慶應義塾大学教授)

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター

アッラーを信じるということ

イスラームとは何かという問いに対するいちばんすっきりした定義が、実は、案外身近にある。『広辞苑』にいう「神への服従・帰依」である。ただ、一つ問題なのが、「神」の概念である。イスラームに言うアッラーは、日本語の話者が思い浮かべる「神様」とあまりに違う。その点にイスラーム理解の難しさは集約される。

日本では、実に多くの神様がいたるところに現れる。海や山が神になることもあれば、偉人が死亡後に祀(まつ)られて神となり、神社が建てられることもしばしばである。祀る人が神になるケースも多く、歴代の天皇は、それに当たる。現人神(あらひとがみ)たるゆえんである。また、人に憑依(ひょうい)したり、祟(たた)ったりもする。とにかく神と人間の間の境界が非常に曖昧(あいまい)なのである。もちろん、日本人にとって神とは何かを数行で述べることなど不可能であるが、決して天地の創造を真理によって完遂するような、そんな存在ではない。そのことだけは断言してよい。

それに対してイスラームの神たるアッラーは、唯一絶対の存在で、全知全能にして、究極の創造主である。唯一であるということも、絶対であるということも、全知全能であるということも、究極の創造主であるということも、たくさんの異なる神々に囲まれて生きてきた日本人には、想像を絶する。日本人は、「絶対に」とよく口には出すが、そこで言われている「絶対」とは次元の違う絶対がイスラームの教えにはある。

イスラームの聖典クルアーンによれば、アッラーは《最初の方》で《最後の方》、そして《外に現われる》だけでなく《内在なされる方》でもある(鉄章3)。最初というからには、宇宙が誕生するその前からであり、最後ということは、つまりたとえ宇宙が消滅してもなお存在するということである。時間を超越し、包摂する存在である。また外にも内にも存在するということであるから、その存在は、空間についてもそれを超越すると同時に包摂し、貫徹する存在ということになる。

時間も場所も越え、すべてを包み込むと同時にすべてを貫いて存在する御方。そうした在り方をするものは、なかなか感知できない。先ごろようやくその存在が確認された重力波、あるいは、質量のあることが確認されたニュートリノは、すべてを貫いて存在しうるという点において、アッラーの在り方の手がかりを有しているのかもしれない。

自分をも貫く存在

人を頼らず。自分をも頼らず……教えのごとく人は清涼となる

さて、そうした在り方をしているアッラーをいかにしたら想起できるであろうか。とりあえず、目を閉じて自分にとっていちばん大きな存在を想起してみる。思い浮かぶものはたいてい小さいと思って、とにかくいちばん大きなものが想起できたと思えるところまで、想像の翼を広げてみる。そしてこれ以上大きなものはあり得ないと確信したところで、今度は、それを包み込む存在を考えてみる。たとえばそれが、アッラーの大きさになる。

どんなものより大きい唯一の存在。だからこそアッラーという神は、天にあり、地にあるすべての物事を有しておられることになる。本当に《アッラーは凡(すべ)ての事を、包含なされる》(婦人章126)とはそういうことなのである。

すべてを包み込み、かつ貫いて存在する御方。したがって論理必然的に、あなたがどこにいようとも、彼はあなたと共にあることになる(鉄章4)。しかもアッラーご自身は、一人一人の《頸動脈(けいどうみゃく)よりも人間に近いのである》(カーフ章16)ということにもなる。

信じるか信じないかは別として、宇宙の広がりより大きく、この世のみならずあの世も包み込むような在り方をしているのがアッラーであるとしたならば、いったい誰がアッラーの包みの外に出られるであろうか。イスラーム教徒が何かにつけて口にする「アッラーフ・アクバル」(アッラーは偉大なり)という言葉があるが、それもより正確には、アッラーは何にもまして大きいということ。人間が何をやっても、自然がどんなに猛威を振るっても、それでもアッラーのほうが大きいということなのだ。

つまり、全知全能ですべてを御存知であり、われわれのみならず、すべての生死をも真理によって創り出すというこの唯一なる御方の在り様(ありよう)を一度知ってしまったのならば、そこからだけは逃げられないということになる。そこからだけは逃げることが不可能でその限りにおいて受け入れざるを得ない存在、それがアッラーなのである。

誰の言いなりにもならない生き方

ところで、人間は、決して一人で生きることはできない。放っておくと、すぐ誰か、あるいは何かの言いなりになってしまうのが人間である。つまり、誰でも何か頼りになるものをいつも探して生きているということだ。お金や地位が頼りになるだろうか。確かに頼りになることは否定できない。しかし、それだけに頼り、従うことができようか。友人はどうだろうか。家族はどうだろうか。そして自分自身はどうであろうか。「自分だけは大丈夫」と思っていた自分に裏切られたことのない人はいないはずだ。人間を神にしてみても、結局、裏切られるのが関の山ではなかろうか。

だからこそ、自分が頼る対象を、よく見極めて外さない。そんな努力が本当は、ブレまくって足掻(あが)くより、よほど求められている。何よりも大きい唯一の存在からは、誰もそこから逃げ出せない。好きであれ嫌いであれ、そのことは変わろうはずもない。そんな大きな一なる存在こそが、頼るべきものであり、従うべきものであり、帰依すべきものなのである。「神に対する服従・帰依」という定義は、アッラーについてのこうした理解を得てはじめて、イスラームの教えが明らかにしたところに近づくことができるのである。

「アッラー以外に神はなし、ムハンマドはアッラーの御遣いである」ことを宣言すれば誰でもイスラームの信者になることができるが、「アッラー以外に神はなし」の部分について、私はしばしば、アッラー以外の誰の、あるいは何の言いなりにもならずに生きることの宣言だと説明する。まさにそこにイスラームの教えが、日本人にとっても決して遠いものではないことを示しうるからである。

プロフィル

おくだ・あつし 1960年、神奈川県生まれ。84年、中央大学法学部卒。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。法学博士。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員。SFC研究所イスラーム研究・ラボ代表。シリア国立アレッポ大学学術交流日本センター副所長。専門はイスラーム法およびその関連諸領域。著書・訳書・論文・共著の書籍など多数。『イスラームの人権―法における神と人―』(慶應義塾大学出版会)は、イスラームの心を伝える日本では数少ない著作である。