イスラームの世界~あなたの上に平安あれ(1) 文・奥田敦(慶應義塾大学教授)

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター

平和を願う祈りのあいさつ「アッサラーム・アライクム」

「アッサラーム・アライクム」。アラビヤ語の中でも最もよく使われる挨拶である。直訳すれば、「あなたがたの上に平安あれ」となる。アラビヤ語の講座では、いちばん最初に取り上げる。なぜならば、アラビヤ語の会話をたとえ1時間でも習ったのだとすれば、とにかく覚えてほしい表現だからである。

アラビヤ語の話者は、現在世界全体で2億5000万人ほどとされる。国の数で言えば、22か国と一つの地域。この「アッサラーム・アライクム」は、まずは、これらの国と地域では間違いなく通じる。さらにこの挨拶は、イスラーム教徒たちの挨拶でもあるため、世界全体で16億人とも18億人ともされるイスラーム教徒たちにも通じる。トルコ語、クルド語、ペルシャ語、ウルドゥー語、マレー語、インドネシア語などでも「アッサラーム・アライクム」である。もちろん日本人のイスラーム教徒にも通じる。少なくとも世界の人口の4人に1人に通じるのが、この挨拶なのだ。

使われる場面が多いのもこの挨拶の特徴である。まず時間を選ばない。朝でも昼でも夜でも使える。人も選ばない。友人、知人に対しても、目上、目下の人に対しても、親兄弟に対しても、初対面の人に対しても使える。それから、信仰が違っていても問題はない。アラビヤ語には、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」にあたる挨拶ももちろんあるし、それらも頻繁に使われるが、それらの代わりに「アッサラーム・アライクム」もよく使われるのである。

それだけではない。たとえば、家に入るとき、部屋に入るとき、車に乗せてもらうとき、メールや手紙の書き出しに使うことだってできる。日本語で言うと、「失礼します」を使うタイミングで使われる言葉だと思っておけば、ほぼ間違いがない。

ところで「失礼します」と「アッサラーム・アライクム」だが、比べてみると面白い。前者では「礼」が、後者では「平和・平安」が重んじられていることが分かるし、前者では、「礼を失する」ことを謝っているのに対して、後者では、相手に対して平安や、平和な関係を望んでいることも分かる。相手に対して迷惑をかけまいとする「失礼します」が、どちらかと言えば、引き算の挨拶だとすれば、相手に対して積極的に平安や平和を宣言する「アッサラーム・アライクム」は足し算の挨拶だ、と言うことができるかもしれない。

仲良くやろうという宣言

東京・渋谷区にある東京ジャーミイ・トルコ文化センター。ジャーミイとは多くの人が参集できるモスクのこと

この引き算なのか足し算なのかの違いは、人間関係のつくり方にも通じるところがある。引き算だとどうしても控えめになるが、相手に対して、こんな風に積極的に働きかける挨拶もあることを覚えておきたい。

たとえば、街角で「あなたがたの上に平安あれ」と声をかけられたら、大抵の日本人はひいてしまう。それこそ、危ないカルトの勧誘か何かだと思われるかもしれない。確かに、控えめで、相手や周りに対して失礼や迷惑をかけないことに対して最大限の注意を払う人間関係づくりには、なじまない挨拶であろう。とはいえ、この挨拶が、相手の平安を祈り、「けんかをするつもりも、戦うつもりもありませんよ。決してつかみかかったりとって食べるようなまねをしたりはしません。仲良くやりましょう」ということの宣言であったとするならば、周りの人や周りの国の人々と平和を希求してやまない人々にとって、むしろその挨拶こそが、真剣に交わされるべきだと思われるのではなかろうか。

ところが、この挨拶を日常的に使っている人々の住む地域の様子が常軌を逸している。いわゆる「アラブの春」と無責任にもてはやされた一連の民主化運動の顚末(てんまつ)を想起してみてほしい。「アッサラーム・アライクム」と相手の平安と平和な関係づくりを日々、宣言しているはずなのに、伝えられてくるのは、テロであり戦争である。たとえば、シリアでは、出口の見えない内戦状態の中で、日々刻々、人々の生命と財産が未曾有の危機にさらされている。

聖典クルアーンは、自分たちの信仰を迫害してくるような人々に対してでさえ、「平安あれ」と挨拶するように命じる。言うことを聞かない人に対して力をもって対抗できるのは、ごくごく例外的なケースであって、平和な関係づくりこそがイスラームでも求められている。

アッラーの求めがなかなか実現できないという現実は、アラブ世界、ひいてはイスラーム世界全体の問題でもある。挨拶は美しい、しかし現実が伴わない。教えは美しい、しかし実践が伴わない。こうした教えと現実の乖離(かいり)こそが、現代のイスラーム世界が抱える最も大きな問題と言える。

サラームな関係をつくりだす

東京ジャーミイ・トルコ文化センターの礼拝場。ドーム天井には、クルアーンの章句が書かれている

厳しい現実の中で、実践に十分な余裕がなく、結局、厳しい結果を突きつけられるといった状況は、何もイスラーム世界に限った話ではない。理想は美しいが、結果が伴わないのが世の常というものではなかろうか。結果が伴わないからと言って無碍(むげ)に理想を否定することはできないし、高い理想を掲げているからこそ、結果に恵まれないということも生じうる。見なければいけないのは、結果そのものではなく、努力であり、過程であり、気持ちなのだと思う。現実ではなく、真実を見ることが肝要なのだ。となると、アッサラームと挨拶しながら、平和が実現できない彼らの苦悩は、実はわれわれが想像する以上に、彼ら自身の中に深く刻み込まれていると同時に、この問題は、われわれの問題でもあることに気付くことができる。

そうであるとするならば、私たちから「アッサラーム・アライクム」と声を発することによって、彼らと私たちの、あるいは彼ら同士のサラーム(平和)な関係を引き出し、あるいは私たち同士のサラームをつくりだすことができるのではなかろうか。

「アッサラーム・アライクム」という挨拶は、したがって皆に通じる平和の祈り。イスラーム教徒であろうがなかろうが、アラブ人であろうがなかろうが、どこにいようが、誰といようが、まずは隣の人に、そして周りの人に言ってみよう。その声は、人種や国籍、文化や伝統、あるいは、信じているものや置かれている状況の違いを超えて皆に伝わり、平和を大切に思う気持ちの輪となって広がってくれる。そうすれば、アジアの西の端で戦禍にあえぐ人々と、直接笑顔を交わすことのできる日が、駆け足で近づいてきてくれるはずである。

プロフィル

おくだ・あつし 1960年、神奈川県生まれ。1984年、中央大学法学部卒。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。法学博士。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員。SFC研究所イスラーム研究・ラボ代表。シリア国立アレッポ大学学術交流日本センター副所長。専門はイスラーム法およびその関連諸領域。著書・訳書・論文・共著の書籍など多数。『イスラームの人権―法における神と人―』(慶應義塾大学出版会)は、イスラームの心を伝える日本では数少ない著作である。

撮影協力・東京ジャーミイ・トルコ文化センター